名称金剛證寺(こんごうしょうじ)
住所三重県伊勢市朝熊町岳548
タイプ
参考リンク

ご利益

  • 現在は臨済宗南禅寺派に属する禅寺。
  • 本尊は虚空蔵菩薩。
  • 開基は弘法大師空海。
  • 明徳3年(1392)に真言宗から臨済宗に改宗した。
  • 伊勢神宮の丑寅の方角にあることから鬼門とされてきた。
  • 伊勢神宮とセットで参拝すべきとされた。
  • 参考文献:『聖地にはこんなに秘密がある』 島田裕巳 講談社

  • 朝熊ヶ岳にある寺。「(伊勢)神宮の奥の院」とも呼ばれる。
  • 欽明天皇(539~571年)の頃に創建されたといわれる。
  • 生龍という力強いエネルギーを持つ龍脈が朝熊ヶ岳から伊勢神宮内宮に向けて走っている。その龍脈の尾の部分に金剛證寺は位置している。内宮には陽の気が流れ込み、金剛證寺には陰の気が流れ込むという仕組みになっている。
  • 金剛證寺は伊勢神宮の鬼門を守る寺というふうに言われることもあるが、それは気学方位の縁起観によるもので伝統風水とは関係がない。だいたい金剛證寺は内宮から見て北東ではなくほぼ真東にある。
  • 伊勢神宮内宮では強い陽の気で陰陽の体のバランスが悪くなる。内宮に参拝した後に金剛證寺へ行き陰の気をほどよく取り入れるとよい。
  • 陰の気を取り入れることによって、炎症や腫れ、むくみなどの症状の緩和が期待できる。
  • 陽の気が活発化しすぎて感情が不安定になっている時などに訪れると沈静化できるパワースポット。
  • 夕方以降に行くのは避けること。
  • 参考文献:『風水パワースポット紀行』 山道帰一 メディア総合研究所

  • 伊勢神宮の鬼門を守る寺。
  • 神宮の奥の院とも呼ばれる。
  • 伊勢音頭の一節に「お伊勢参らば朝熊(金剛證寺)かけよ、朝熊かけねば片参り」と唄われており、昔の人は伊勢神宮と金剛證寺にセットで参拝していた。伊勢神宮に参拝する際はぜひ立ち寄るとよい。
  • 弘法大師が掘ったとされる池がある。
  • 参考文献:『パワースポットニッポン』 ヴォイス編集部編 ヴォイス

金剛證寺へ行ってきました

伊勢神宮に参拝した後、金剛證寺に参拝することに。
伊勢神宮と金剛證寺はセットで訪れるのがよいと聞いたもので。
金剛證寺は朝熊ヶ岳という山の上にあるお寺とのこと。

近鉄鳥羽線の朝熊駅でおりて、少し歩いて登山口に到着。
朝熊ヶ岳は標高555メートルだそうで、そんなに高い山ではないです。
でも金剛證寺までここから約4キロとけっこうあります。
朝熊岳道登山口


登山道には1町(約109m)ごとに目印となる石柱が建てられてたりします。
ほとんどが江戸時代に建てられたものだとか。
町石


途中、ケーブルカー跡なんてのが残ってました。
大正~昭和初期の頃、ここにはケーブルカーが通っていて、当時は東洋一の施設と言われていたとか。
レールは戦時中に軍需品として供出したみたいですが、石段みたいなのが残ってましたね。
ケーブルカー跡


1時間くらい登って見晴らしのいいところに出ました。
見晴らし台


宇治岳道と合流してさらに登ります。
昔はこのへんに旅館があったりして、バスなんかも通っていたとか。
道


山頂に到着。
八大龍王社が鎮座しておりました。
八大龍王社
山頂は見晴らしがよく、いい眺めでした。
山頂からの眺望


山頂から金剛證寺の方に下りていくと、なにやら大きな木の棒がいっぱい立っている所に出ました。
これ、卒塔婆らしいです。
よくお墓とかに立ててあるやつ。
でも、ここのはサイズが大きいです。
卒塔婆


こちら極楽門。
奥の院への入口みたいです。
この門をくぐった者は極楽往生できるとか。
極楽門


奥の院へ続く道にも卒塔婆がズラズラ立ち並んでいます。
塀みたいです。
参道


途中、九鬼水軍の将、九鬼嘉隆公の五輪塔があったりします。
関ヶ原合戦の折、西軍につき戦ったそうですが、敗れて答志島において自刃された方だとか。
九鬼嘉隆の五輪塔


奥の院へ到着。
こちらの御本尊は、延命子安地蔵尊だそうです。
奥の院


引き返してきて、本堂の方へ向かいます。
これは本堂に行く途中にあった明星堂。
伊勢神宮の鬼門除けのために明星天子をお祀りしているお堂だそうです。
「明星は日、月、星、の三字よりなり三光天子とも称され国土安穏智慧成就の仏神」だそうです。
明星堂


本堂にも参拝。
御本尊は虚空蔵菩薩様だそうです。
本堂
境内にあった寺の由来書の内容を以下に記しておきます。
<<金剛證寺>>
宗派 臨済宗南禅寺派
本尊 虚空蔵菩薩坐像 江戸時代

沿革
本寺の草創は寺伝では欽明朝とし、弘法大師の中興としています。
朝熊山(553メートル)はこの近傍では、古くから霊山としてあがめられています。平安末期には、伊勢両大神宮祠官を含む幅広い階層からの、埋経信仰にささえられていました。
この霊山信仰はその後祖霊信仰と深くかかわって、この山麓地方は当山奥の院で卒塔婆をたてる信仰習俗となっています。



境内に池がありました。
「連間(つれま)の池」というそうです。
本に書いてあった弘法大師が掘ったという池とは、この池のことのようです。
池にかかる朱塗りの反った橋は「連珠(れんじゅ)橋」というそうで、浦田織部藤原長次が願主となって寛文12年(1672)に創建されたものだそうな。
連間の池
この橋を境に此岸(迷いの世界)と彼岸(悟りの世界)を表現しているとか。
向こう岸に建つお堂には、雨宝童子尊の神像を祀っているそうです。
この神像は、天照大神が日向国に降り立った16才のお姿を、弘法大師が感得して刻まれたものと言い伝えられているとか。