名称 | 花窟神社(はなのいわやじんじゃ) |
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住所 | 三重県熊野市有馬町上地130 |
タイプ | 神社 |
参考リンク | 花窟神社HP |
ご利益
- 高さ45メートルの磐座が御神体。黄泉国の出入口を塞いでいるという説あり。麓の大きなくぼみにイザナミが埋葬されたという。
参考文献:『地図でわかる天皇家の謎』 歴史謎学倶楽部 宝島社
- イザナミの墓と伝承されている。
- 花の窟にあいている洞窟は、イザナミが火の神カグツチを産んだときに焼かれたホト(女陰)だと言い伝えられている。
参考文献:『体感パワースポット』 出口衆太郎 BABジャパン
- イザナミの葬所といわれている。
- 御神体の大岩には穴がたくさんあいている。その穴から人骨が発見されたことがある。
- 花の窟の東方約60メートルの海中には謎の大岩窟がある。「ダイハナ」と呼ばれており、「花の窟」の別名である「大般若」がなまったもので、本来はこの海中の大岩窟もふくめて「花の窟」と呼ばれていたのではないかという話もある。
- 熊野本宮は花の窟から移ったとされる。千代狭田命(ちよさだのみこと)が神器・神宝を天の羽車に乗せて、本宮の旧社地である大斎原(おおゆのはら)に運んだという。
参考文献:『日本の秘地・魔界と聖域』 小松和彦、荒俣宏、他 KKベストセラーズ
- 伊弉冉尊(いざなみのみこと)が葬られたと伝わる地。
- 高さ70メートルの巨石が御神体。
- 日本書紀に記されており日本最古の神社ともいわれる。
- マイナスの情念が和らぐ。
- 人生を大切にする心が育まれる。
- 生命力アップ。
- 母なる女神に感謝の念を捧げるとよい。
参考文献:『幸せを呼び込むパワースポット』 暁玲華 集英社
花窟神社へ行ってきました
花窟神社にやってまいりました。
これは海の方から見たところ。
この時は蒸し暑かったですし、他のところで蚊にブスブス刺されてちょっと不快な状態でした。
もう森の中とかに入りたくないので、ここから拝みました。
なかなか壮観です。
説明板には花の窟について次のように書いてありました。
花の窟の前に広がる海を見てリフレッシュ。
これは海の方から見たところ。
この時は蒸し暑かったですし、他のところで蚊にブスブス刺されてちょっと不快な状態でした。
もう森の中とかに入りたくないので、ここから拝みました。
なかなか壮観です。
説明板には花の窟について次のように書いてありました。
<<花の窟>>
この花の窟には社殿はなく、高さ45mの巨巌そのものを御神体としている。自然崇拝の太古からの遺風を残すとともに、熊野の神様としてあがめられてきた。御神体の巨巌の直下に立つと身の引き締まる思いがする。
祭神は伊弉冊尊(いざなみのみこと)、軻遇突智神(かぐつちのかみ)である。毎年2月2日と10月2日には、祭典の主要神事である「お網かけ神事」が行われる。お網かけは、わら縄で編んだ110尋(約180m)の大網に季節の花、扇を括(くく)り付け巌の上から引き延ばして松の大樹の梢に引き渡し、境内南隅の松の根元に結びつける。
日本書紀神代の巻一書に「いざなみのみこと、火神(ひのかみ)を生むときに、灼(や)かれて神退去(かむさ)りましぬ、故(かれ)、紀伊国(きのくに)の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。土俗(くにひと)、此の神の魂(みたま)を祭るには、花の時には亦(また)花を以(も)て祭る、又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用(も)て、歌ひ舞ひて祭る。」と記されている。
「花の窟」の名を初めて世に紹介したのは、平安中期の有名な修行僧である増基法師である。その紀行文「いほぬし」には
・・・見れば、やがて岩屋の山なる中をうがちて、経(きょう)を籠(こ)め奉りたるなりけり。「これは弥勒仏(みろくぼとけ)の出給はん世に、取り出で奉らんとする経なり。天人常に降りて供養し奉る」といふ。げに見奉れば、この世に似たる所にもあらず。・・・傍らに王子の岩屋といふあり。・・・
と花の窟を述べている。
この花の窟には社殿はなく、高さ45mの巨巌そのものを御神体としている。自然崇拝の太古からの遺風を残すとともに、熊野の神様としてあがめられてきた。御神体の巨巌の直下に立つと身の引き締まる思いがする。
祭神は伊弉冊尊(いざなみのみこと)、軻遇突智神(かぐつちのかみ)である。毎年2月2日と10月2日には、祭典の主要神事である「お網かけ神事」が行われる。お網かけは、わら縄で編んだ110尋(約180m)の大網に季節の花、扇を括(くく)り付け巌の上から引き延ばして松の大樹の梢に引き渡し、境内南隅の松の根元に結びつける。
日本書紀神代の巻一書に「いざなみのみこと、火神(ひのかみ)を生むときに、灼(や)かれて神退去(かむさ)りましぬ、故(かれ)、紀伊国(きのくに)の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。土俗(くにひと)、此の神の魂(みたま)を祭るには、花の時には亦(また)花を以(も)て祭る、又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用(も)て、歌ひ舞ひて祭る。」と記されている。
「花の窟」の名を初めて世に紹介したのは、平安中期の有名な修行僧である増基法師である。その紀行文「いほぬし」には
・・・見れば、やがて岩屋の山なる中をうがちて、経(きょう)を籠(こ)め奉りたるなりけり。「これは弥勒仏(みろくぼとけ)の出給はん世に、取り出で奉らんとする経なり。天人常に降りて供養し奉る」といふ。げに見奉れば、この世に似たる所にもあらず。・・・傍らに王子の岩屋といふあり。・・・
と花の窟を述べている。
花の窟の前に広がる海を見てリフレッシュ。