名称宝積寺(ほうしゃくじ)
住所京都府乙訓郡大山崎町銭原1
タイプ
参考リンク

ご利益

  • 別名「宝寺(たからでら)」といい、金運に関して強力なご利益がある。
  • 大黒天神を祀る小槌宮で祈祷を受けた後、黄色い財布を持って仁王門までしゃべらず振り向かずに帰る。そしてその財布にお金を入れておくと、お金がドンドン増えていく。
  • 羽柴秀吉と明智光秀が戦った「山崎の合戦」の際に秀吉の本陣が置かれた場所。秀吉が戦勝記念に一晩で建立した三重塔や、秀吉が腰掛けたとされる「秀吉の出世石」などがある。
  • 参考文献:『島田秀平と行く! 全国開運パワースポットガイド決定版!!』 島田秀平 講談社

宝積寺へ行ってきました

金運に御利益があるという宝積寺に行ってみることに。
天王山登り口
ここらへんは秀吉と光秀が戦った場所としても有名で、宝積寺の他にもいろいろと見所が満載のようです。
登り口の付近にあった案内板には次のように書いてありました。
<<天王山の位置と歴史>>
古来、大山崎は軍事、交通上の要衝として歴史上重要な役割を果たしてきました。その要の位置をしめている山が標高270.4メートルの天王山です。天王山は摂津国と山城国の境をなし、また西国と東国を結ぶ重要なポイントであり、山と川との間は最も狭い部分で200メートルたらずしかなくここを通らずして西へも東へも行けないという位置にあります。
古代、この山には名はなく、中世になって山崎山、そして山頂近くに酒解神社が建立されて牛頭天王を祭ったためそれから天王山の名が生まれました。しかしこの名が知られるようになるのは室町時代の応仁・文明の乱の時からで、地域的な重要性から天王山に城が築かれ、たびたび合戦が行われました。やがて最も知られている天下分け目の天王山「山崎合戦」が天正10年(1582)6月13日、夕刻4時ごろ山頂、山麓で明智軍、羽柴軍との間で繰りひろげられました。やがて勝利をおさめた羽柴秀吉は天下統一をめざすため天王山山頂に天守閣をそなえた城を築城し大山崎を城下町としたのです。
このような歴史をもつ天王山には今日数多くの神社仏閣、史跡等が残され、おとずれる者に歴史の重みを感じさせてくれます。中世の繁栄を今に受けつぐ離宮八幡宮や宝積寺には数々の文化財があり近世の幕明けとともに建てられた妙喜庵内茶室「待庵」(国宝)は利休が建立した唯一の現存茶室として有名です。その他にも古代から近世に至る様々な歴史を秘めた天王山の探訪を心ゆくまで楽しんでください。



宝積寺に行く坂はかなり急でした。
ひーひー言いながら頑張って登りました。
坂


そして宝積寺に到着。
入口の仁王門です。
聖武天皇の勅願所だったんですね。
宝積寺


立派な仁王様。
仁王像


三重塔発見。
読んだ本に秀吉が戦勝記念として一晩で建立したとか書いてあったように思います。
秀吉さんは仕事がはやいですね。
三重塔


こちらが本堂。
宝積寺
案内板には次のように書いてありました。
<<宝積寺>>
一般には宝寺の名で知られており、本町に現存する寺院の中で最も古い歴史を誇る。
寺伝によると奈良時代に聖武天皇の勅願寺として僧行基が開創したと伝え、その後、長徳年間(995~999)寂照が中興し、室町初期には八幡宮油座からの寄進も多くあり寺運は大いに盛りあがった。さらに嘉慶3年には定額寺にも列し、多くの子院をもつに至る。
戦国時代の終わり、山崎合戦の折には羽柴秀吉が一時当寺を陣所とし、合戦後宝寺も山崎城の一部として利用されたと伝えられる。
しかし、幕末の動乱は宝寺にもおしよせ、元治元年(1864)の兵火と廃仏毀釈で寺運はすっかり衰微したがじょじょに寺観、寺域も復興され今日にいたった。現在、乙訓地方で最も多くの文化財を保有する寺院で、見るべき仏像が多くある。



本堂のとなりにあったこのお堂が、たぶん小槌宮だと思います。
私のリサーチによると、ここで祈祷を受けて黄色い財布をもって仁王門まで振り向かずに帰ると、金運が強力にアップするとか。
祈祷は受けず黄色い財布も持っていなかったですけど、とにかくしっかり拝んでおきました。
小槌宮


境内の脇の方に天王山へ登っていけるっぽい道がありました。
そのうち登ってみたいです。
道