名称比叡山
住所京都府京都市
タイプ
参考リンク比叡山へいこう!

ご利益

  • 信長の比叡山焼き討ちの真の目的は、最澄が嵯峨天皇から授かった秘宝(ノアの箱舟の断片)を奪うこと。
  • 信長は本能寺で死んでおらず、秘宝を携え信忠、光秀とともにバチカンに渡り枢機卿になった。
  • 参考文献:『ムー』424号 学研

  • 以下、天台千日回峰行について。
  • 1~3年目、1年に100日、1日30キロ回峰。
  • 4~5年目、1年に200日、1日30キロ回峰。
  • 5年700日の回峰を終えると、明王堂で「堂入り」の行。9日間断食断水不眠不臥で不動明王の真言を10万回唱える。終わると行満阿闍梨を名乗れる。
  • 6年目、赤山苦行。100日、1日30キロ+赤山禅院への往復。
  • 7年目、前半100日は1日84キロの「京都大廻り」の回峰、後半100日は1日30キロ。
  • 参考文献:『究極 日本の聖地』 鎌田東二編著 中経出版

  • 最澄さんが現われた。見えない世界の勉強を頑張る人に優しい。長宴(ちょうえん)さんという守護霊をつけてくれた。
  • 参考文献:『神社仏閣 パワースポットで神さまとコンタクトしてきました』 桜井識子 ハート出版

  • 比叡山の西麓に八瀬(やせ)という集落がある。住民は「八瀬の童子」「鬼の子孫」といわれ、天皇の即位の大典や大葬に奉仕。鬼も童子も丑寅(鬼門)の象徴。丑寅は陰から陽への転換エネルギー内臓。「八瀬の童子」は陰陽転換呪力を内在させている呪物として、天皇の即位・大葬という陰陽交替の両儀に参加。
  • 参考文献:『神々の誕生』 吉野裕子 岩波書店

  • 以下、「鬼門」の諸説。
  • 山海経説。
  • 空亡説。六十干支表における甲寅の旬の空亡「子丑」=鬼門。のちに一支ずれて丑寅に。
  • 変化宮説。丑寅は時間でみると日の境(丑刻、寅刻)、年の境(丑月、寅月)、季節の境(冬、春)。丑寅は陰陽変化の時であり、その方位は変化宮として恐れられ鬼門に。
  • 相剋説。八方位の中で丑寅(東北)だけが両隣の方位(北、東)と相剋の関係になる。
  • 参考文献:『易と日本の祭祀』 吉野裕子 人文書院

  • 比叡山の七不思議というのがある。以下、列挙する。
  • 「将門岩」というのがある。平将門がこの岩の上から都を見渡しながら藤原純友と天下制圧の謀議をした。
  • 「弁慶水」という井戸がある。最澄が湧かせた水。武蔵坊弁慶がこの水で喉を潤した。この水で平清盛の熱病が治った。
  • 「なすび婆」が毎夜山中徘徊。むかし宮中に仕えていた女で、人を殺して地獄に落とされたが、仏の慈悲で比叡山に棲むことを許された。
  • 「三面大黒天」が祀られている。
  • 「船坂」という坂がある。大勢の女の亡者を乗せた船が出る。
  • 乙女が夜中に水ごり。
  • 一つ目小僧が山中徘徊。この一つ目小僧は慈忍和尚。不心得な僧侶を懲らしめる。
  • 参考文献:『神社仏閣に隠された日本史の謎と闇』 中見利男 宝島社

  • 天台修験の回峯行(かいほうぎょう)の主要な行場。
  • 貞観年間(859~877)、相応(そうおう)が薬師如来の夢告を受けて『法華経』の常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の行に徹し、生身(しょうじん)の不動明王の示現を得た。千日回峯行はこの相応が始めたものとされる。
  • 不動明王の真言を呪しつつ700日山林を跋渉し、さらに9日間の断食を終えると「行満(ぎょうまん)」と呼ばれる。さらに赤山修行などを経て千日に達すると「大行満・大阿闍梨」と称され、土足参内が許される。
  • 参考文献:『図説 日本呪術全書』 豊島泰国 原書房

  • 比叡山四大魔所というのがある。以下、列挙する。
  • 西塔の真ん中に「狩籠(かりごめ)の丘」という場所がある。伝教大師最澄が平安京の南東方向から魑魅魍魎を狩り、この狩籠の丘に封じたとされる。丘に上にはピラミッド形の3つの石が正三角形を描くように配置されており、その中心に魑魅魍魎が封じ込められている。今でも修行者たちがここを通る際は、それまで使っていた提灯のロウソクを石の横に立て、新しいロウソクと取り替え、法華経を唱えながら立ち去るという魑魅魍魎封印の儀式を行う。
  • 東塔の麓へ下る本坂の道の途中にある亀堂の裏手に「天梯権現祠(てんだいごんげんほこら)」というのがある。天狗が住んでいるといわれる。天狗は修行者たちの邪魔をする魔物。
  • 横川の飯室谷の端に「慈忍和尚廟(じにんかしょうびょう)」というのがある。元三大師良源の直弟子で、天台座主にまでなった慈忍和尚の墓。真面目な人だったが魔道を行ってしまい「一眼一足」という妖怪の姿になり、今でも修行者たちが怠慢しないように夜な夜な鐘を鳴らしながら山中を徘徊している。
  • 横川の鬼門にあたる場所に「元三大師御廟(がんさんたいしみみょう)」というのがある。元三大師良源の墓。キノコ形をした墓石がある。良源は平安時代の天台座主で、比叡山を絶頂期に導いたカリスマ的霊能者。魔除けの御札「角大師」は、良源の鏡に映った姿を弟子の明普が写し取ったものといわれる。良源は自分の遺骸を比叡山の鬼門に捨て、墓は決して掃除するなと遺言した。キノコ形の石は天下に変事があれば、凄まじい風の音を立てて、それを知らせる。
  • 参考文献:『日本魔界ゾーン―京都・鎌倉』 吉田憲右著、三木孝祐監修 泉書房

  • 比叡山の山中には「四大魔所」と呼ばれる場所がある。以下、その説明。
  • 西塔近くに「狩籠(かりごめ)の丘」と呼ばれる場所がある。三角形の3つの石が各々9メートルほどの間隔で置かれ正三角形を成している。この三角形の中心に最澄が魑魅魍魎を封じ込めたという。夜中にここを通る修行僧は魔除けの儀式を行う。儀式を行わないと魔に取り憑かれる。
  • 東塔近くに「天梯権現祠(てんだいごんげんほこら)」というのがある。次郎坊という大天狗が現れ修行僧を脅かす。
  • 「慈忍和尚廟(じにんかしょうびょう)」というのがある。慈忍は延暦寺の座主になったほどの人だが、魔道を行った人ともいわれる。魔道に身を落とした慈忍は一眼一足(いちげんいっそく)という妖怪の姿になり、夜な夜な山中を徘徊している。
  • 横川に「元三大師廟(がんさんだいしびょう)」というのがある。比叡山中興の祖、第18世天台座主、元三大師良源(りょうげん)の墓。良源は霊力が強く魔を降すことができたため「降魔大師」とも呼ばれた。良源は「自分の遺骸は比叡山の鬼門に捨て、墓はけして掃除するな」と遺言した。事変のある時は風が吹く。
  • 参考文献:『[図説]日本の魔界地図』 志村有弘監修 PHP研究所

  • 比叡山延暦寺は平安京最大の鬼門の守りとして桓武天皇が伝教大師最澄に創建させた。他にも上賀茂神社、下鴨神社、上御霊社(かみごりょうしゃ)などが鬼門封じのために建てられた。
  • 桓武天皇は他にも都の霊的ガードとして様々なものをつくった。以下に列挙する。
  • 京の東西南北に岩倉(いわくら)を置いた。岩倉とは巨石群のこと。その巨石群の下に一切経を埋め都の霊的ガードとした。北岩倉は山住神社。東岩倉は東岩倉山。西岩倉は西岩倉山金蔵寺。南岩倉は明王院不動寺。なかでも北岩倉は往時の姿をよくとどめている。
  • 京の四方に大将軍社(だいしょうぐんしゃ)という社を築いて都の霊的ガードとした。大将軍とはスサノオノミコトのこと。
  • 裏鬼門(南西)にあたる大原野に大原野神社を築いた。
  • 南東の守りとして剣(つるぎ)神社を築いた。
  • 北西の守りとして愛宕神社を築いた。
  • 桓武天皇が上記のような都の呪術防衛システムを厳重につくったのは心にやましいことがあったから。桓武天皇は自分が天皇になるために腹違いの弟の他戸(おさべ)親王とその母親を死に追いやった。また自分の息子を王位につけるために同母弟の早良(さわら)親王も死なせた。
  • 参考文献:『日本魔界探検』 火坂雅志 廣済堂出版

  • おごそかで雄大な気を感じる。
  • 山の中のあちこちに「穴」がある。
  • 山の麓に家康の墓を凌ぐ活龍の入った地がある。
  • 日吉大社の西本宮から末本宮に歩く途中、神園収蔵庫を過ぎたあたりにパワースポットがある。
  • 参考文献:『「風水」の秘密』 御堂龍児 ごま書房

比叡山へ行ってきました

比叡山に行ってみよう。
と思ったんですが、ケーブルカーが営業していませんでした。
地図で見た感じ、ケーブルカーで楽に登れそうだな~と思っていたんですが、冬季は営業していないみたいです。
ケーブル八瀬駅


歩いて登るのはたいへんそうですし、だいたい登山道がどこにあるのか知りませんでしたから、今回は比叡山に登るのは諦めて、ふもとにある八瀬の集落をてきとうにブラブラしてみることに。
吉野裕子さんの本で「八瀬の童子」のことを読んでちょっと興味もありましたし。
八瀬は山間にある静かな集落で、川も流れていて、なかなかいい感じのとこでした。
川


「かまぶろ」なるものを発見。
蒸風呂の一種らしいです。
壬申の乱で背中に矢を受け負傷した大海人皇子(天武天皇)が、ここで傷を癒したという伝説があるらしいです。
また、八瀬の地名は「矢背」から来ているという話もあるとか。
かまぶろ


八瀬天満宮社という神社があったので寄ってみました。
八瀬天満宮社

牛の像がありました。
お賽銭入れてなでてやりました。
牛像


こちらが社殿になります。
天満宮なので御祭神はもちろん菅原道真公です。
道真公が若い頃に比叡山にいく際、この地で休息をとったという話があるのだとか。
道真公没後に師の叡山法性坊阿闍梨尊意というお方が勧請したのが当社の始まりと伝えられているようです。
ちなみに社殿の背面扉の内側には十一面観音絵像も祀られているとか。
十一面観音は道真公の本地仏なんだそうな。
社殿


境内には秋元神社というのもあります。
秋元但馬守喬知(たかとも)というお方をお祀りしているそうです。
江戸時代に幕府老中だった方らしいです。
なんでも宝永の頃に、八瀬村と比叡山との間で境界論争が勃発したらしいです。
その時、秋元さんが八瀬村の利権を認める裁決をしてくれたそうで、その恩に報いるためにこうして神社を建てたらしいです。
秋元神社