名称 | 彦根城 |
---|---|
住所 | 滋賀県彦根市金亀町1-1 |
タイプ | 城 |
参考リンク |
ご利益
- 彦根にもお菊伝説がある。近くの長久寺にお菊の墓がある。皿もある。
参考文献:『ムー』446号 学研
- 結城秀康の怨念が天秤櫓に籠もり井伊家に祟った。
- 楽々園に「お軽の間」がある。お軽という侍女が不義を犯し、この部屋で成敗されたのでその名がついた。その後、侍女たちの折檻部屋に。文政の頃、若竹という侍女が不義を働き苛烈な折檻ののち成敗された。
- 近くに清涼寺がある。島左近の屋敷跡に建つ。次の七不思議が伝えられる。「木娘」「左近の南天」「壁の月」「唸り門」「洗濯井戸」「血の池」「佐和山の黒雲」。
- 近くに佐和山城跡がある。石田三成居城。関ヶ原合戦直後、東軍の猛攻を浴び老若男女多数が悲惨な最期を遂げる。
参考文献:『日本の伝説10 近畿』 日本伝説拾遺会監修 教育図書
彦根城へ行ってきました
彦根城を早朝散歩です。
これは彦根駅の前にあった彦根藩初代藩主・井伊直政公の像です。
長い角のはえた兜をかぶっていてかっこいいのですが、ピンボケですみません。

お城の方に歩いていったら護国神社があったので参拝しておきました。

神社の近くにあった埋木舎。
井伊直弼さんが青年時代を過ごしたところだそうです。

埋木舎のあたりから城の方を望む。
すごい立派なお城ですね。

このへんから天守閣の方に入っていけるみたいですが、早朝なので営業してません。

説明板に書いてあった彦根城に関する記述を以下に記しておきます。
「花の生涯記念碑」なるものがありました。

説明板には次のように書いてありました。
これは井伊直弼さんの像です。

説明板には次のように書いてありました。
これは遠城謙道(おんじょうけんどう)さんという方を顕彰する碑らしいです。
彦根藩士だった方で、のちに僧となって井伊直弼さんのお墓守を何十年もずっと勤めたのだそうな。

堀のそばをダラダラ歩きます。
この堀を屋形船で遊覧できるサービスもあるようでした。

お城の北の公園などがあるところまできたら、天守閣らしきものが見えました。
そういえば、北の外堀(?)のところでは釣りをしている人がいっぱいいましたね。

これは彦根駅の前にあった彦根藩初代藩主・井伊直政公の像です。
長い角のはえた兜をかぶっていてかっこいいのですが、ピンボケですみません。

お城の方に歩いていったら護国神社があったので参拝しておきました。

神社の近くにあった埋木舎。
井伊直弼さんが青年時代を過ごしたところだそうです。

埋木舎のあたりから城の方を望む。
すごい立派なお城ですね。

このへんから天守閣の方に入っていけるみたいですが、早朝なので営業してません。

説明板に書いてあった彦根城に関する記述を以下に記しておきます。
<<彦根城>>
この彦根城は、慶長5年(1600年)井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601年)上野の国高崎城から佐和山城に移ってきた。
その後直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死し、慶長8年(1603年)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。時の将軍家康は特に奉行を差し向け7ヶ国12大名にも応援させ、元和8年(1622年)現在の彦根城が完成、築城をはじめてから実に20年の年月を要したもので、城地面積約0.25k㎡(75800余坪)周囲約4km(1里)高さ約50メートルの彦根山に築城した平山城である。
昭和26年(1951年)に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓門櫓・三重櫓・佐和口多聞櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952年)には天守閣を国宝に、同31年(1956年)には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963年)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。また、新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られている。
この彦根城は、慶長5年(1600年)井伊直政が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601年)上野の国高崎城から佐和山城に移ってきた。
その後直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死し、慶長8年(1603年)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。時の将軍家康は特に奉行を差し向け7ヶ国12大名にも応援させ、元和8年(1622年)現在の彦根城が完成、築城をはじめてから実に20年の年月を要したもので、城地面積約0.25k㎡(75800余坪)周囲約4km(1里)高さ約50メートルの彦根山に築城した平山城である。
昭和26年(1951年)に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓・太鼓門櫓・三重櫓・佐和口多聞櫓を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952年)には天守閣を国宝に、同31年(1956年)には彦根城一帯を特別史跡に、同38年(1963年)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。また、新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られている。
「花の生涯記念碑」なるものがありました。

説明板には次のように書いてありました。
<<花の生涯記念碑>>
世情騒然たる幕末に、開国の英断を下した大老井伊直弼の波乱に富んだ一生を描いた小説「花の生涯」(作者舟橋聖一(ふなはしせいいち))が発表され、人々に深い感銘を与え、映画・演劇として、また、特にNHKテレビドラマを通じて世の絶賛を博し、「花の生涯」ブームをもたらした。このことを記念して昭和39年10月25日に建立されたものである。中央の四角い石を大老井伊直弼にみなし、左右の低い石を長野主膳と村山たか女とし、キラキラと輝く砂は雪をあらわし、波乱にみちた「花の生涯」を物語っている。
お三方について少し調べたんですが、花の生涯とはいいながら、どなたもけっこう大変な人生を歩まれたようです。世情騒然たる幕末に、開国の英断を下した大老井伊直弼の波乱に富んだ一生を描いた小説「花の生涯」(作者舟橋聖一(ふなはしせいいち))が発表され、人々に深い感銘を与え、映画・演劇として、また、特にNHKテレビドラマを通じて世の絶賛を博し、「花の生涯」ブームをもたらした。このことを記念して昭和39年10月25日に建立されたものである。中央の四角い石を大老井伊直弼にみなし、左右の低い石を長野主膳と村山たか女とし、キラキラと輝く砂は雪をあらわし、波乱にみちた「花の生涯」を物語っている。
これは井伊直弼さんの像です。

説明板には次のように書いてありました。
<<井伊直弼(1815-1860)>>
開国の英雄井伊直弼は、文化12年(1815年)に彦根城下の下屋敷(槻御殿)に生まれ、嘉永3年(1850年)36歳で彦根藩主となり、安政5年(1858年)には江戸幕府の大老職となった。同年6月、直弼は我国の将来を考えアメリカとの開国を英断。この大偉業をなしとげた直弼は、心情をくむことのできなかった人々によって安政7年(1860年)3月3日桜田門外で暗殺され46年の生涯に幕を閉じた。
やっぱり地元なので、直弼さんに対して温かい目で見てくれているような気がします。開国の英雄井伊直弼は、文化12年(1815年)に彦根城下の下屋敷(槻御殿)に生まれ、嘉永3年(1850年)36歳で彦根藩主となり、安政5年(1858年)には江戸幕府の大老職となった。同年6月、直弼は我国の将来を考えアメリカとの開国を英断。この大偉業をなしとげた直弼は、心情をくむことのできなかった人々によって安政7年(1860年)3月3日桜田門外で暗殺され46年の生涯に幕を閉じた。
これは遠城謙道(おんじょうけんどう)さんという方を顕彰する碑らしいです。
彦根藩士だった方で、のちに僧となって井伊直弼さんのお墓守を何十年もずっと勤めたのだそうな。

堀のそばをダラダラ歩きます。
この堀を屋形船で遊覧できるサービスもあるようでした。

お城の北の公園などがあるところまできたら、天守閣らしきものが見えました。
そういえば、北の外堀(?)のところでは釣りをしている人がいっぱいいましたね。
