名称 | 闘鶏神社(とうけいじんじゃ) |
---|---|
住所 | 和歌山県田辺市湊655 |
タイプ | 神社 |
参考リンク |
ご利益
- もとは新(いま)熊野神社といった。
- 湛増が源平いずれにつくべきかお伺いを立てたら、巫女を通して白旗(源氏)につけと託宣。闘鶏による占いでも白鶏(源氏)が勝ったので源氏に味方した。
参考文献:『ふるさとの伝説7 寺社・祈願』 伊藤清司監修 ぎょうせい
- 源平合戦の際、義経、熊野水軍総帥・熊野三山別当の田辺湛増に協力要請。湛増、闘鶏で占い源氏に味方することを決意。
- 湛増が源氏に荷担したのは武蔵坊弁慶が彼の実子だからという話もある。
参考文献:『日本の伝説11 奈良・南紀』 日本伝説拾遺会監修 教育図書
- 『源平盛衰記』によると、熊野別当が、源氏=白い鶏、平氏=赤い鶏として神前で戦わせた。白い鶏が勝ったので源氏方についた。壇ノ浦の戦いで勝利。
- 勝運。
- 7月24・25日に田辺祭がある。
参考文献:『神社でヒーリング』 比企理恵 実業之日本社
闘鶏神社へ行ってきました
闘鶏神社にやってまいりました。
熊野別当の湛増さんが社前で紅白の鶏を7度戦わせ、全部白い方が勝ったので源氏の味方をしたことから闘鶏神社と言われるようになったとか。
こちらが社殿です。
御祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)らしいです。
社殿の裏にはうっそうとした森が広がってますが、案内板によると仮庵山(かりおやま)というらしいです。
古代祭祀跡、竜神信仰、経塚などがあるとか。
南方熊楠さんが植物採集したりもしたらしいです。
こちらは藤巖神社で、安藤直次さんを祀っているそうです。
この方は田辺城主としてこの地方を治め方だそうな。
とりあえず拝んでおきました。
こちらは武蔵坊弁慶さんを祀る弁慶社です。
家内安全・社運隆昌・立身出世・衆災消除の御利益があるとか。
とりあえず拝んでおきました。
神社に参拝した後、扇ヶ浜に行ってみました。
きれいななビーチでした。
熊野水軍はこの辺から出陣したんでしょうか。
これはビーチのちょい北西の方にある錦水神社。
神社の前は小さな公園になってました。
この辺にむかし田辺城があったらしいです。
案内板には次のように書いてありました。
これが錦水神社の裏あたりにあった水門。
熊野別当の湛増さんが社前で紅白の鶏を7度戦わせ、全部白い方が勝ったので源氏の味方をしたことから闘鶏神社と言われるようになったとか。
こちらが社殿です。
御祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)らしいです。
社殿の裏にはうっそうとした森が広がってますが、案内板によると仮庵山(かりおやま)というらしいです。
古代祭祀跡、竜神信仰、経塚などがあるとか。
南方熊楠さんが植物採集したりもしたらしいです。
こちらは藤巖神社で、安藤直次さんを祀っているそうです。
この方は田辺城主としてこの地方を治め方だそうな。
とりあえず拝んでおきました。
こちらは武蔵坊弁慶さんを祀る弁慶社です。
家内安全・社運隆昌・立身出世・衆災消除の御利益があるとか。
とりあえず拝んでおきました。
神社に参拝した後、扇ヶ浜に行ってみました。
きれいななビーチでした。
熊野水軍はこの辺から出陣したんでしょうか。
これはビーチのちょい北西の方にある錦水神社。
神社の前は小さな公園になってました。
この辺にむかし田辺城があったらしいです。
案内板には次のように書いてありました。
<<田辺城水門>>
田辺市指定史跡 【昭和51年3月13日指定】
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、紀伊国には浅野幸長(あさのよしなが)が入国し、田辺には浅野左衛門佐氏重(さえもんのすけうじしげ)が入った。浅野氏は慶長11年(1606)、会津川左岸河口に築城し移るとともに、あらたに城下の町割を行った。田辺城はこの時に形づくられ、その城下町は今日の田辺市街地のもととなった。
元和5年(1619)、徳川頼宣(よりのぶ)が紀州藩主となるとともに、頼宣の付家老であった安藤帯刀(あんどうたてわき)は、3万8000余石を与えられ田辺領主となり、以後幕末までこの城は安藤氏の居城であった。
徳河幕府の一国一城制により、公的には館(やかた)と称したが、幕末には錦水城(きんすいじょう)とも呼ばれた。安藤家は紀州藩の筆頭家老として、和歌山に常駐し、田辺は親類の安藤小兵衛家が留守居役として、代々城代家老を務めた。
城の河口近くには、埋門(うずめもん)型の水門が設けられ、この水門を利用した記録も多く残っている。
明治3年(1870)、田辺城は廃城となり、早くに姿を消してしまったが、現在、僅かに水門が昔の面影を残している。
田辺市指定史跡 【昭和51年3月13日指定】
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、紀伊国には浅野幸長(あさのよしなが)が入国し、田辺には浅野左衛門佐氏重(さえもんのすけうじしげ)が入った。浅野氏は慶長11年(1606)、会津川左岸河口に築城し移るとともに、あらたに城下の町割を行った。田辺城はこの時に形づくられ、その城下町は今日の田辺市街地のもととなった。
元和5年(1619)、徳川頼宣(よりのぶ)が紀州藩主となるとともに、頼宣の付家老であった安藤帯刀(あんどうたてわき)は、3万8000余石を与えられ田辺領主となり、以後幕末までこの城は安藤氏の居城であった。
徳河幕府の一国一城制により、公的には館(やかた)と称したが、幕末には錦水城(きんすいじょう)とも呼ばれた。安藤家は紀州藩の筆頭家老として、和歌山に常駐し、田辺は親類の安藤小兵衛家が留守居役として、代々城代家老を務めた。
城の河口近くには、埋門(うずめもん)型の水門が設けられ、この水門を利用した記録も多く残っている。
明治3年(1870)、田辺城は廃城となり、早くに姿を消してしまったが、現在、僅かに水門が昔の面影を残している。
これが錦水神社の裏あたりにあった水門。