名称高山神社(こうざんじんじゃ)
住所三重県津市丸之内27-16
タイプ神社
参考リンク

ご利益

  • 近くに中河原海岸がある。1945年7月28日の空襲で亡くなった36人を埋葬。1955年7月28日、36人の女子中学生が溺死。海岸近くに女生徒たちを供養する女神像あり。
  • 参考文献:『その土地の人が口を閉ざす日本列島のヤバイ話』 歴史ミステリー研究会編 彩図社

  • 近くに阿漕ヶ浦がある。伊勢神宮の御用以外は禁漁、破ったものは厳罰だった。昔、平治という漁師が病気の母のために阿漕ヶ浦で漁をしたら、役人に見つかり簀巻きにされ阿漕ヶ浦の沖に沈められた。その後、怪異が続いたので阿漕塚を建立。
  • 参考文献:『日本の伝説11 奈良・南紀』 日本伝説拾遺会監修 教育図書

  • 藤堂高虎を祀る。次々と主君を替えた。築城の名手。
  • 明治9年(1876)、創建。
  • 神社名は高虎の法号に由来。
  • 参考文献:『怨霊神社―怨霊を鎮めた伝説の神社・仏閣』 日本怨霊研究会 竹書房

高山神社へ行ってきました

高山神社に行ってみることに。
これは津城の石垣。
なかなか立派な石垣です。
津城
案内板には津城の歴史が次のように書いてありました。
<<津城跡>>
津城は、織田信長の弟信包(のぶかね)によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。天正8年(1580)には五層の天守閣が完成し、当時柳山付近が中心であった津の町から町家や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町とも戦火を受けた。
慶長13年(1608)、藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊予今治(いよいまばり)から移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に角櫓(すみやぐら)を築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で、堀が「回」の字形に二重に巡っている輪郭(りんかく)式または囲郭(いかく)式といわれる形の城である。
城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町屋(まちや)が置かれた。町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。また、堀川を掘り、東側の守りとしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。さらに堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合に備えた。




城のなかをブラブラしていたら、藤堂高虎公の像がありました。
藤堂高虎公像
案内板には高虎公について次のように書いてありました。
<<藤堂高虎公>>
弘治二(1556)年、近江国犬上郡藤堂村(のち在士村、現滋賀県甲良町)に生まれた。15才の時、浅井氏に仕え、姉川合戦で初陣を飾って以来各地を転戦し、天正四(1576)年21才で長浜城主木下秀長(豊臣秀長)に三百石で召し抱えられ、天正十三(1585)年には紀州粉川(和歌山県粉河町)ではじめて一万石の大名となった。
その後豊臣秀吉の下で伊予宇和島(愛媛県宇和島市)七万石となり、二度の朝鮮出兵にも参加した。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、関ヶ原の戦いの時には家康に味方して勝利をおさめ、伊予今治(愛媛県今治市)二十万石の大名となった。
そして、慶長十三(1608)年いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地の伊勢・伊賀に二十二万四千石で移され、大坂の役の後に加増され三十二万三千余石の大大名となった。また高虎は、築城の第一人者としても名高く自身の居城として築城した板島城(宇和島城)・今治城や津城・伊賀上野城の修築、城下町形成はもちろんのこと、幕府の命で修築を行った聚楽第・膳所城・伏見城・江戸城・篠山城・丹波亀山城・大坂城・二条城と数多く手がけている。このように高虎の生涯は、戦乱に明け暮れ、また各地を奔走し席の暖まる暇もないものであったが、武将らしさとともに領民への気配りや人の和を大切にした人物であったと伝えられている。
戦国時代を生き抜いて大大名にのし上がったり築城が上手かったりと、すごい方ですね。



てきとうに歩いていたら高山神社への入口を見つけたので、入っていって参拝してきました。
藤堂高虎公の強運にあやかりたいものです。
高山神社



お稲荷さんも参拝しておきました。
この稲荷神社は、もともと宇治山田町浦口というところにあったらしいですが、津市民の信仰が篤かったので、明治の終わり頃にこっちに移したらしいです。
城山稲荷神社



神社参拝後は城の西側にある日本庭園を散歩。
緑が多く落ち着いた雰囲気でよかったです。
日本庭園
日本庭園
日本庭園


入徳門なるものがありましたね。
もとは藩校・有造館の講堂の正門だったらしいです。
有造館廃校後もいろんな学校とか幼稚園の門として使われたとか。
1945年の戦災時にも燃えずに残ったらしいです。
強運の門かもしれません。
入徳門