名称 | 鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう) |
---|---|
住所 | 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31 |
タイプ | 神社 |
参考リンク | 鶴岡八幡宮HP |
ご利益
- 1293年4月13日、永仁鎌倉地震発生。北条得宗家の利権を優先させる鎌倉復興事業により、同家に対する反発者増大。
参考文献:『今こそ知っておきたい「災害の日本史」』 岳真也 PHP研究所
- 以下、承久の乱で流刑になった天皇・上皇・親王。
- 後鳥羽上皇、隠岐へ。流刑地暮らし18年。
- 土御門上皇、土佐へ。10年。
- 順徳天皇、佐渡へ。20年。
- 頼仁親王、備前へ。
- 雅成親王、但馬へ。
参考文献:『地図でわかる天皇家の謎』 歴史謎学倶楽部 宝島社
- 以下、八幡信仰が広がった理由。
- 皇室の祖先神とされたから。
- 仏教と結びついたから。
- 源氏が氏神にしたから。
- 源頼朝の八幡信仰が武士に波及したから。
- 御成敗式目に神を敬うように書いてあるから。
- 足利家も徳川家も源氏だから。
- 本地が阿弥陀如来で来世の安楽を保証するから。
参考文献:『神社に秘められた日本史の謎』 新谷尚紀監修 洋泉社
- 家内安全。
- 出世開運。
- 無病息災。
参考文献:『開運! パワースポット「神社」へ行こう』 一条真也監修、造事務所編著 PHP研究所
- 源氏池がある。夜になると呪詛場の側面が濃くなる。大きな生首が浮いていた。弁財天ではおしゃべりな巫女(?)が出現したが×印で出て消えた。清々しい水流が見えた。
- 平家池がある。エイリアンの繭のようなのが浮いていた。
- 近くに今宮神社がある。正月に合わせて浄化される。政敵の呪詛から鎌倉を護るために造られた。
参考文献:『スピ☆散歩 ぶらりパワスポ霊感旅 4』 伊藤三巳華 朝日新聞出版
- 鶴岡八幡宮にはかつて「浜の大鳥居」と呼ばれる鳥居があったとされる。海の中に建っていたという話もある。
参考文献:『日本の謎と不思議大全 東日本編』 人文社
- 縁結び。
- 家内安全。
- 勝負運。
- 自然が豊か。散歩するとよい。初夏に源平池の東に白蓮が、西に紅蓮が咲く。
- 最近、倒れた大イチョウの根元から芽が出て復活。成長エネルギー。
参考文献:『神社でヒーリング』 比企理恵 実業之日本社
- 康平6年(1063)、源頼義が石清水八幡宮を勧請したのがはじまり。
- もとは由比ヶ浜にあった。源頼朝が現在地に移した。左中太(さちゅうだ)という男が、八幡宮の上棟式の帰途についていた頼朝を暗殺しようと尾行していたが逮捕された。
- 段葛(だんかずら)は、源頼朝が妻政子の安産を祈願して築いたもの。頼朝は政子が出産のために実家に戻っている時、浮気していた。浮気がバレてしばらくもめた。
- 建久2年(1191)3月3日、御家人・広田次郎邦房が、鶴岡八幡宮焼失を予言。翌日的中。頼朝泣く。
- 承久元年(1219)、鶴岡八幡宮で三代将軍源実朝暗殺。犯人の公暁は、拝殿へ向う階段脇の銀杏の陰に隠れていたという。
参考文献:『「神社」で読み解く日本史の謎』 河合敦 PHP研究所
- 以下、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由。
- 山と海に囲まれ防御しやすいから。
- 山に囲まれ狭いので流民の流入を防ぐことができ衛生状態を良好に保ちやすいから。
- 疫病が恐かったから。
参考文献:『日本史の謎は「地形」で解ける』 竹村公太郎 PHP研究所
- 行動力アップ。
- 出世運アップ。
- 夫婦円満。
- 縁結び。
- 旗上弁財天社の裏に「政子石」がある。安産。
- 大イチョウがパワーの源。木を拝み写真を撮ることで生命力と再生力アップ。
- やり直すチャンス。
- 宝物殿や今宮神社に寄るとよい。氣を肌で感じる能力アップ。
参考文献:『さらにパワーをいただける 神社の謎』 合田道人 祥伝社
- 御祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめがみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)。
- 若宮大路の参道の段葛(だんかずら)は、源頼朝が妻・北条政子の安産を祈願して造った。
- 旗上弁財天社(はたあげべんざいてんしゃ)の裏に「政子石(姫石)」というのがある。夫婦円満のご利益がある。
- 家内安全、商売繁盛、厄除け、交通安全。
参考文献:『全国パワースポットPERFECT BOOK』 イースト・プレス
- 境内にある旗上弁財天社の裏に「政子石」というのがある。源頼朝が北条政子の安産を祈ったとされる石。夫婦円満、縁結びなどのご利益がある。
参考文献:『ご利益別ピンポイント神社』 マガジンハウス編 マガジンハウス
- 鶴岡八幡宮の裏手に新宮神社というのがある。承久の乱で敗れた後鳥羽上皇の怨霊を鎮めるために鎌倉幕府が建立したもの。
- 後鳥羽上皇の死を境に鎌倉では怪奇事件が多発。人々は後鳥羽上皇の祟りだと恐れた。以下に列挙する。
- 1239年、承久の乱の院宣を鎌倉に報告した三浦義村が突然死去。
- 1240年、承久の乱において京都攻撃の幕府軍大将をつとめた北条時房が謎の急死。
- 1242年、四条天皇が誤って転倒し12歳という若さで世を去る。執権北条泰時が長い闘病生活の末、世を去る。
- 1248年、後鳥羽上皇の怨霊を鎮めるために新宮神社の社壇を勧請。
参考文献:『日本魔界ゾーン―京都・鎌倉』 吉田憲右著、三木孝祐監修 泉書房
- 鎌倉幕府三代将軍源実朝(さねとも)が甥の公暁(くぎょう)によって殺害された場所。石段の下が殺害現場とされる。
- 鶴岡八幡宮の裏手に今宮(新宮)神社というのがある。承久の乱を起こし敗れ配流先で死んだ後鳥羽上皇を祀る。後鳥羽上皇が死ぬ前に書いた遺書の草稿には「魔縁となるかもしれない」とある。上皇の死後、鎌倉では幕府の重鎮が次々急死した。
参考文献:『[図説]日本の魔界地図』 志村有弘監修 PHP研究所
- 昭和40年代に初詣客の数が日本一になった。
- 2010年3月10日、樹齢1000年といわれた大銀杏が強風で根こそぎ倒れた。この銀杏は「隠れ銀杏」とも呼ばれていた。鎌倉幕府3代目将軍・源実朝が銀杏の影に隠れていた甥の公暁(くぎょう)に殺された事件が名前の由来。倒れた銀杏は回復不可能といわれていたが、移植1年後に幹から新芽が出た。
参考文献:『日本の聖地99の謎』 歴史ミステリー研究会編 彩図社
- 奥州平定に力を発揮した源頼義が氏神である石清水八幡宮を勧請し、由比ケ浜に鶴岡若宮として創建したのがルーツ。鶴岡若宮を現在地に遷座し鎌倉の街並みをつくったのは鎌倉幕府を開いた源頼朝。
- 武運、勝負運アップ。
- 学業成就。
- 健康運アップ。
- 家内安全。
- 「キティ健康守」シリーズや「健康キキララ守」が女性に人気。
- 樹齢1000年といわれた大イチョウは2010年3月に倒れた。未明に倒れたので人的被害はなかった。
参考文献:『早分かり!日本のパワースポット』 幸運社 大和書房
- 鎌倉時代に建てられた。
- 強い龍の山々に三方を囲まれており地理的条件がよい。
- 応神天皇を祀ってあり神霊の力も強い。
- 参道階段脇の大イチョウのあたりもパワースポット。
参考文献:『「風水」の秘密』 御堂龍児 ごま書房
- 背後にある天台山が祖山。衣張山が青龍砂、桔梗山が白虎砂になっている。
- 鎌倉は敵に攻め込まれにくい地形だが気が滞りやすい。中央を流れる滑川が滞った気を流している。
- 鶴岡八幡宮は鎌倉の地を循環させ活性化させる役割を持っている。
- 人生に変化を与えてくれるパワースポット。自分の望まない変化が起きるかもしれない。しかし最終的には良い方向に行く。
- 強風で倒れた大銀杏周辺には再生を促すパワーがある。
- 出世運アップ。
- 行動力アップ。
参考文献:『李家幽竹 最強龍穴パワースポット』 李家幽竹 山と渓谷社
鶴岡八幡宮へ行ってきました
鎌倉市にある鶴岡八幡宮にやってまいりました。
車道より少し高くなっているこの参道を段葛(だんかずら)というらしいです。
源頼朝が妻・政子の安産を祈願して造ったものだとか。
八幡宮の入口付近にあった由来書の内容を以下に記しておきます。
東の池にある旗上弁天社に参拝。
弁天社の裏の方に政子石を発見しました。
縁結びなどのご利益があるとか。
ちなみに、この弁天社のある東の池は源氏池といい三つの島を配してあり、もう一方の西の池は平家池というそうで、そちらには四つの島を配してあるんだそうです。
これには、
「三」=「産」
「四」=「死」
という意味があるらしいです。
つまり「源氏栄えて平氏滅べ」という呪いが込められている池なんですね。
この池を造るのを命じたのは北条政子さんだそうです。
怖い怖い。
これは舞殿です。
正式には下拝殿というらしいです。
本宮を石段の下から拝むためのものだそうな。
本宮へと続く石段。
その脇に縄の張られたスペースが。
ここが強風で倒れてしまったという大銀杏があった場所みたいです。
このへんがパワーが強いという話なんですが、でもここは源実朝殺害現場とも言われる場所で、ビミョウなスポットです。
参拝客がいっぱいいて陰気臭さは感じませんでしたけど。
倒れた銀杏は脇の方に移植され、元の場所に残された根とともに再起をはかっているらしいです。
ちゃんと育つといいですね。
こちらは若宮(下宮)。
寛永元年(1624)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠が修復したものだそうです。
こちらが本宮。
文政11年(1828)に江戸幕府11代将軍・徳川家斉が造営したものだそうです。
たくさんの参拝客で賑わってました。
お稲荷さんにも参拝。
白旗神社にも参拝。
御祭神は源頼朝・実朝親子です。
鶴亀石なんてのがありました。
水で洗うと鶴亀の紋様が輝きあらわれるといわれている石なんだとか。
さて、鶴岡八幡宮の西の方の出口から境内を出まして、少し北の方へ歩いていくと脇に入っていく小路があります。
その小路の先に今宮神社を発見。
この神社の御祭神は、土御門天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇の3柱です。
承久の乱で敗れて島流しになってしまったあわれな天皇様たちです。
怨霊鎮魂のための神社といったところでしょうか。
八幡宮の方は大勢の参拝客で賑わっておりましたが、こちらには誰一人おりませんでした。
その静けさが不気味でした。
今宮神社に参拝した後、さらに足をのばして建長寺までやってきました。
建長5年(1253)、執権北条時頼の発願により中国の禅僧・大覚禅師(蘭渓道隆)を開山として創建されたお寺だそうです。
日本最初の純禅の大道場だそうな。
ちなみに拝観料300円かかります。
これは三解脱門。
略して三門。
空・無想・無作をあらわしているそうな。
この門をくぐることによって、あらゆる執着から解き放たれるというありがたい門です。
大覚禅師お手植えと言われるビャクシン。
建長寺では他にも古色蒼然とした御本尊の地蔵菩薩像、ガリガリに痩せこけたお釈迦様の像、雲龍図、綺麗な庭園など見所満載のお寺でした。
拝観料がかかるせいか鶴岡八幡宮よりはすいていて、ゆっくり見物できると思います。
そして最後に、お寺のさらに奥の方にある半僧坊にも行ってみました。
しばらく登っていくと、たくさんの天狗像が出現。
ちょっと怖いです。
半増坊に参拝。
由来書によりますと、五代前の建長寺の住職の夢に半増坊さんが出てきたのがキッカケで創建されたそうです。
半増坊さんって何者なんでしょう。
天狗さんでしょうか。
静岡県奥山方広寺から勧請してきたみたいな事が書いてありましたけど。
さらに上の方に行くと勝上献(しょうじょうけん)という眺めのよい場所があるとのことだったので、頑張って行ってみることに。
案内板に「天園ハイキングコース」という文字があるのに反応してしまいました。
私のリサーチによると、天園ハイキングコースはかなり危ない心霊スポットらしいので少々ビビりました。
こんなところに入口があったんですね。
いずれは行くつもりでいますが、この日はあまり深入りしないでおこうと思いました。
少し登ると勝上献という見晴台に着きました。
鎌倉市街、その向こうにある相模湾を一望できました。
ここから眺めると鎌倉は三方を山に囲まれた天然の要害だということがよくわかりますね。
半増坊から戻る途中にリスを発見。
車道より少し高くなっているこの参道を段葛(だんかずら)というらしいです。
源頼朝が妻・政子の安産を祈願して造ったものだとか。
八幡宮の入口付近にあった由来書の内容を以下に記しておきます。
<<鶴岡八幡宮>>
御祭神
応神天皇、比売神、神功皇后
当宮は源頼義公が前九年の役平定後、康平6年(1063)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。
治承4年(1180)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。
建久2年(1191)大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた。
以来当宮は武家の守護神として北条・足利・後北条・徳川各氏も社領等の寄進、社殿の修造を行い篤く尊崇した。
御祭神
応神天皇、比売神、神功皇后
当宮は源頼義公が前九年の役平定後、康平6年(1063)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。
治承4年(1180)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。
建久2年(1191)大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた。
以来当宮は武家の守護神として北条・足利・後北条・徳川各氏も社領等の寄進、社殿の修造を行い篤く尊崇した。
東の池にある旗上弁天社に参拝。
弁天社の裏の方に政子石を発見しました。
縁結びなどのご利益があるとか。
ちなみに、この弁天社のある東の池は源氏池といい三つの島を配してあり、もう一方の西の池は平家池というそうで、そちらには四つの島を配してあるんだそうです。
これには、
「三」=「産」
「四」=「死」
という意味があるらしいです。
つまり「源氏栄えて平氏滅べ」という呪いが込められている池なんですね。
この池を造るのを命じたのは北条政子さんだそうです。
怖い怖い。
これは舞殿です。
正式には下拝殿というらしいです。
本宮を石段の下から拝むためのものだそうな。
本宮へと続く石段。
その脇に縄の張られたスペースが。
ここが強風で倒れてしまったという大銀杏があった場所みたいです。
このへんがパワーが強いという話なんですが、でもここは源実朝殺害現場とも言われる場所で、ビミョウなスポットです。
参拝客がいっぱいいて陰気臭さは感じませんでしたけど。
倒れた銀杏は脇の方に移植され、元の場所に残された根とともに再起をはかっているらしいです。
ちゃんと育つといいですね。
こちらは若宮(下宮)。
寛永元年(1624)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠が修復したものだそうです。
こちらが本宮。
文政11年(1828)に江戸幕府11代将軍・徳川家斉が造営したものだそうです。
たくさんの参拝客で賑わってました。
お稲荷さんにも参拝。
白旗神社にも参拝。
御祭神は源頼朝・実朝親子です。
鶴亀石なんてのがありました。
水で洗うと鶴亀の紋様が輝きあらわれるといわれている石なんだとか。
さて、鶴岡八幡宮の西の方の出口から境内を出まして、少し北の方へ歩いていくと脇に入っていく小路があります。
その小路の先に今宮神社を発見。
この神社の御祭神は、土御門天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇の3柱です。
承久の乱で敗れて島流しになってしまったあわれな天皇様たちです。
怨霊鎮魂のための神社といったところでしょうか。
八幡宮の方は大勢の参拝客で賑わっておりましたが、こちらには誰一人おりませんでした。
その静けさが不気味でした。
今宮神社に参拝した後、さらに足をのばして建長寺までやってきました。
建長5年(1253)、執権北条時頼の発願により中国の禅僧・大覚禅師(蘭渓道隆)を開山として創建されたお寺だそうです。
日本最初の純禅の大道場だそうな。
ちなみに拝観料300円かかります。
これは三解脱門。
略して三門。
空・無想・無作をあらわしているそうな。
この門をくぐることによって、あらゆる執着から解き放たれるというありがたい門です。
大覚禅師お手植えと言われるビャクシン。
建長寺では他にも古色蒼然とした御本尊の地蔵菩薩像、ガリガリに痩せこけたお釈迦様の像、雲龍図、綺麗な庭園など見所満載のお寺でした。
拝観料がかかるせいか鶴岡八幡宮よりはすいていて、ゆっくり見物できると思います。
そして最後に、お寺のさらに奥の方にある半僧坊にも行ってみました。
しばらく登っていくと、たくさんの天狗像が出現。
ちょっと怖いです。
半増坊に参拝。
由来書によりますと、五代前の建長寺の住職の夢に半増坊さんが出てきたのがキッカケで創建されたそうです。
半増坊さんって何者なんでしょう。
天狗さんでしょうか。
静岡県奥山方広寺から勧請してきたみたいな事が書いてありましたけど。
さらに上の方に行くと勝上献(しょうじょうけん)という眺めのよい場所があるとのことだったので、頑張って行ってみることに。
案内板に「天園ハイキングコース」という文字があるのに反応してしまいました。
私のリサーチによると、天園ハイキングコースはかなり危ない心霊スポットらしいので少々ビビりました。
こんなところに入口があったんですね。
いずれは行くつもりでいますが、この日はあまり深入りしないでおこうと思いました。
少し登ると勝上献という見晴台に着きました。
鎌倉市街、その向こうにある相模湾を一望できました。
ここから眺めると鎌倉は三方を山に囲まれた天然の要害だということがよくわかりますね。
半増坊から戻る途中にリスを発見。