名称長岡天満宮
住所京都府長岡京市天神2-15-13
タイプ神社
参考リンク長岡天満宮HP

ご利益

  • 延暦13年、長岡京を大地震が襲う。同年10月22日、桓武帝、平安京遷都。
  • 参考文献:『今こそ知っておきたい「災害の日本史」』 岳真也 PHP研究所

  • 長岡京の中心部は長い丘陵(向日丘陵)の終わる部分に置かれた。長岡京の名はこれに由来。
  • 参考文献:『京都奈良「駅名」の謎』 谷川彰英 祥伝社

  • 以下、長岡京について。
  • 784年、血脈的アウトサイダーの桓武天皇が権勢を誇示するため遷都。
  • 下水完備都市だったが、地形が悪く下水が氾濫。
  • 参考文献:『地図でわかる天皇家の謎』 歴史謎学倶楽部 宝島社

  • 菅原道真が大宰府左遷時に、この地に立ち寄り自作の木像を祀ったのが始まり。
  • 自然がいっぱい。癒し。
  • キリシマツツジが見事。4月下旬頃から深紅に染まる。
  • 参考文献:『神社でヒーリング』 比企理恵 実業之日本社

長岡天満宮へ行ってきました

長岡天満宮にやってまいりました。
長岡天満宮
入口付近にあった説明板に神社の由緒が次のように書いてありました。
<<菅原道真(845年~903年)と長岡天満宮の由緒>>
長岡天満宮周辺は、もともと菅原道真の所領でした。道真は当時、在原業平(ありわらのなりひら)(平安時代前期六歌仙の一人)らと共に、この地でしばしば詩歌管弦を楽しんだと伝えられています。
道真は、幼くして学問に優れ、その聡明さと政治的手腕から宇多(うだ)天皇の信任を受けます。以後も政府の要職を歴任し、宇多天皇が法皇となったのち醍醐(だいご)天皇のときに右大臣まで昇りつめました。しかし、時の権力者・藤原氏は、道真の出世を快く思っていませんでした。
昌泰4年(901)、左大臣の藤原時平(ふじわらのときひら)は、醍醐天皇に「道真が娘を斉世親王(ときよしんのう)(宇多法皇の息子・醍醐天皇の弟)に嫁がせ、醍醐天皇を失脚させようとしている」と虚偽の報告をします。宇多法皇の政治的影響力を疎ましく感じていた醍醐天皇は、この讒言(ざんげん)を聞き入れ、道真に九州・太宰府(だざいふ)への左遷を命じます。
無実の罪により平安京を追われることとなった道真。道中、この地を訪れ、「我が魂長くこの地にととまるべし」と都を想ったそうです(このことから長岡天満宮は「見返り天神」とも呼ばれます)。
その後、道真は九州に向かいますが、その時にお供したのが乙訓(おとくに)郡開田(かいでん)村(このあたりの旧地名)の中小路宗則(なかこうじむねのり)らでした。道真は宗則らと別れる際、自身の姿を模した6センチ余りの木像を贈り、名残を惜しみます。
左遷から2年後の延喜3年(903年)、道真は配流先の太宰府で亡くなります。これを聞いた宗則らは、道真から贈られた木像を御神体として祀りました。これが長岡天満宮の始まりです。



左右に池がある参道を歩いていきます。
ここがキリシマツツジゾーンらしいです。
4月中旬から5月上旬あたりが見ごろみたいですよ。
参道


大きな池があって気持ちがいいです。
江戸時代頃につくられたらしいです。
池


てきとうに境内を歩いていたら社殿のあるところに到着。
御祭神は学問の神様菅原道真公ですから頭がよくなるように拝んできました。
長岡天満宮


お稲荷さんも拝んでおきました。
お稲荷さん


参拝したあと池の周囲をブラブラ散歩。
この神社はとても広いですし自然も多くて散策するのに最適だと思いました。
池