名称 | 平将門首塚 |
---|---|
住所 | 東京都千代田区大手町1-2-1 |
タイプ | 塚 |
参考リンク |
ご利益
- 以下の場所にも将門の首塚伝説あり。
- 埼玉県幸手市。
- 静岡県掛川市、十九首塚。
参考文献:『その土地の人が口を閉ざす日本列島のヤバイ話』 歴史ミステリー研究会編 彩図社
- GHQによる駐車場造成工事中にブルドーザーが転倒し死者が出て工事中止になり塚が残ったという話は都市伝説。実際は町民の嘆願で守られた。
参考文献:『ムー』429号 学研
- 首塚の前に車を止めると事故るという噂。
参考文献:『パワースポットの歩き方 スペシャリストに聞く聖地のヒミツ』 伊藤三巳華ほか 朝日新聞出版
- 京都で晒されていた平将門の首、東に飛び去る。何度か落ちた。そこはいずれも神社になっている。最後にこのあたりに落ちた。人々は首を丁重に葬り塚をつくった。
- 鎌倉時代、僧・真教がこのあたりを通りかかり、村人らが崩れかけた塚の祟りに苦しんでいるのを知り、塚を修復、供養。近くにあった神社の祠を修造して将門の霊を祀った。
- 明治時代、首塚は大蔵省の中庭にあった。関東大震災で庁舎焼失、塚も崩れた。塚は更地にされ、その上に仮庁舎建設。ちなみに塚を取り壊す前、学者が調査したところ、中に石棺はあったが副葬品は盗掘済。その後、大正15年(1926)、大蔵大臣・早見整爾死亡。さらに大蔵官僚、工事関係者など十数名が次々死亡。また多くの役人が庁舎内で転倒しケガ。昭和3年(1928)、仮庁舎撤去、首塚復元。昭和15年(1940)、逓信省の建物に落雷、その火が大蔵省に燃え移り全焼。
- GHQの命令によりブルドーザーで塚を破壊しようとしたが、ブルドーザーが横転、運転手死亡、工事中止。
参考文献:『「神社」で読み解く日本史の謎』 河合敦 PHP研究所
- 御首神社(岐阜県大垣市)、築土神社(東京都千代田区)、國王神社(茨城県坂東市)などにも首塚伝承がある。
- 粗末にすると祟る。
- 関東大震災後、瓦礫の山となったこの場所に大蔵省が建てられたが、病人が続出。大蔵大臣はじめ14人が亡くなった。落雷で大蔵省全焼。
- 戦後、アメリカ進駐軍がここに駐車場をつくろうとしたが、ブルドーザーがひっくり返り死人が出た。
- 昭和63年(1988)、映画『帝都物語』の撮影中に機材落下、火災などの事故が起こった。
参考文献:『さらにパワーをいただける 神社の謎』 合田道人 祥伝社
- 家康は江戸城を開くにあたって平将門への挨拶を欠かさなかった。
- 江戸の聖地巡りをする際は最初に訪れ拝礼するとよい。
- カエルの置物は将門の首が京から飛んで帰ってきたことに因む。再生の願いを叶える。
参考文献:『体感パワースポット』 出口衆太郎 BABジャパン
- 京都で晒されていた平将門の首が飛んできて、落ちたところがこの場所。村民が首塚を築いたが、しばしば祟りをなした。鎌倉時代になってから供養が行われ神田明神に将門の霊が祀られた。
- 関東大震災の後、大蔵省の仮庁舎建設のために塚が壊されかかると、関係者が次々と病気になり、大臣以下十数人の死者も出た。
- 1940年、大蔵省の建物が落雷で炎上。
- 第二次世界大戦後、進駐軍の駐車場を建設しようとしたブルドーザーが、首塚の石標に当たって横転し運転手が投げ出されて死亡。
参考文献:『[図説]日本の魔界地図』 志村有弘監修 PHP研究所
- 昔この場所には大蔵省があった。大正12年に関東大震災が起き大蔵省の建物が罹災、将門塚も半壊した。建物を建て直すことになり、塚は邪魔だというのでブルドーザーで壊した。すると大蔵省の役人のなかに怪我をしたり病気になるものが続出。さらに工事を指揮した営繕局の工務部長は原因不明の謎の死を遂げた。その後2年間に14人もの人が怪死。大蔵大臣の早速整爾(はやみせいじ)氏が急死するに及び、ただ事ではないということで、盛大な鎮魂際が行われた。
参考文献:『日本魔界探検』 火坂雅志 廣済堂出版
- 京都で晒されていた平将門の首が胴体を求めて飛んでいき落ちた場所。
- 粗末にすると祟りがある。
- この場所に駐車場をつくろうとしたGHQの工事が中止になった。
- 誠心誠意願えばビジネス上のご利益があるという噂がある。
参考文献:『日本の聖地99の謎』 歴史ミステリー研究会編 彩図社
- 首塚自体は霊的には何も感じないキレイな場所。怨念などない。
- 塚の入り口の階段や植え込みのある付近に異様な空気がある。体がさらわれていくような空気を含んだ風が流れている。皇居の方から流れてきているらしい。日によって波動に強弱がある。
参考文献:『闇の検証 第四巻』 「HONKOWA」編集部編 朝日新聞出版
- 勇気と決断力を与えてくれる。
- 勝負運が向上する。
- 首塚に水を注ぐとよい。将門公への礼をつくし、また自分自身を清めることになる。
- 皇居も近いが皇居に行くタイミングとはずらした方がよい。
参考文献:『超能力者 清田益章が選ぶ本物のパワースポット』 清田益章 学習研究社
平将門首塚へ行ってきました
千代田区にある平将門首塚にやってまいりました。
京都で晒し首になっていた平将門の首が飛んできて落ちたとされる場所です。
様々な祟りがあったとかで心霊スポットとして有名な場所ですが、一部にはここはパワースポットであり勝負運がアップするなどの話もある、よくわからない場所です。
来る前は、もっと暗くてジメッとした場所なのかなと思っていましたが、実際は通りに面していて、こぎれいに整備されていて清潔な雰囲気に思えました。
入口の階段や植え込みの所に異様な空気が流れているという話もあるんですが、鈍感なので、べつになにも感じませんでした。
参拝や見物しに来る人がけっこういましたね。
入ってすぐ横に案内板が設置されており塚の由来が書いてありました。
前半部分だけ以下に記しておきます。
また次のようなことが書かれた案内板もありましたね。
将門さんの首が京都から飛んできたという話は信じがたいですが、こっちの原田さんの話はリアルっぽいので怖いですね。
こちらが塚です。
花とかが供えてありました。
まわりに置いてある蛙の像はなんなんでしょうね?
首塚を見た後、皇居の方をブラブラ散策。
首塚と皇居は行くタイミングをずらした方がよいという話もあるんですが、目と鼻の先なのでかまわず行ってしまいました。
しかし将門さんの首塚の近くに皇居ができちゃうというのは、なんとも皮肉ですね。
将門さんはどんな思いで皇居を見つめていらっしゃるのでしょうか。
写真は楠正成の像。
正成さんも悲運の最期を遂げたお方ですけど、朝廷に忠義を尽くした人はこうやってカッコいい銅像が建ってしまうのですね。
京都で晒し首になっていた平将門の首が飛んできて落ちたとされる場所です。
様々な祟りがあったとかで心霊スポットとして有名な場所ですが、一部にはここはパワースポットであり勝負運がアップするなどの話もある、よくわからない場所です。
来る前は、もっと暗くてジメッとした場所なのかなと思っていましたが、実際は通りに面していて、こぎれいに整備されていて清潔な雰囲気に思えました。
入口の階段や植え込みの所に異様な空気が流れているという話もあるんですが、鈍感なので、べつになにも感じませんでした。
参拝や見物しに来る人がけっこういましたね。
入ってすぐ横に案内板が設置されており塚の由来が書いてありました。
前半部分だけ以下に記しておきます。
<<将門首塚の由来>>
今を去ること壱千五拾余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子、将門は、下総国に兵を起し、忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲を受け、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを天慶の乱という。
将門の首級は京都に送られ、獄門に架けられたが、3日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。
その後もしばしば将門の怨霊が祟をなすため、徳治2年、時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建てて日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神に、その霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
後半には、将門さんは朝敵になってしまったけれども、実は郷土の勇士であったみたいなことが書いてありました。今を去ること壱千五拾余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子、将門は、下総国に兵を起し、忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲を受け、馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを天慶の乱という。
将門の首級は京都に送られ、獄門に架けられたが、3日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。
その後もしばしば将門の怨霊が祟をなすため、徳治2年、時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建てて日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神に、その霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
また次のようなことが書かれた案内板もありましたね。
<<酒井家上屋敷跡>>
江戸時代の寛文年間この地は酒井家雅楽頭の上屋敷の中庭であり歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。
なんと、ここは原田某の殺害現場でもあったんですか。江戸時代の寛文年間この地は酒井家雅楽頭の上屋敷の中庭であり歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。
将門さんの首が京都から飛んできたという話は信じがたいですが、こっちの原田さんの話はリアルっぽいので怖いですね。
こちらが塚です。
花とかが供えてありました。
まわりに置いてある蛙の像はなんなんでしょうね?
首塚を見た後、皇居の方をブラブラ散策。
首塚と皇居は行くタイミングをずらした方がよいという話もあるんですが、目と鼻の先なのでかまわず行ってしまいました。
しかし将門さんの首塚の近くに皇居ができちゃうというのは、なんとも皮肉ですね。
将門さんはどんな思いで皇居を見つめていらっしゃるのでしょうか。
写真は楠正成の像。
正成さんも悲運の最期を遂げたお方ですけど、朝廷に忠義を尽くした人はこうやってカッコいい銅像が建ってしまうのですね。