名称 | 羽田の大鳥居 |
---|---|
住所 | 東京都大田区 |
タイプ | 鳥居 |
参考リンク | 穴守稲荷HP |
ご利益
- 近くに五十間鼻の無縁仏堂がある。東京大空襲の被災者を祀ったもの。
参考文献:『ムー』434号 学研
- 終戦後、アメリカ側は羽田付近の住民を強制退去させ、重機を使って街を更地にした。しかし穴守稲荷の一の鳥居だけは残っていた。神社の撤去に関わった米兵が次々と異様な死を遂げたという噂が流れた。
- 鳥居の撤去を委託された日本の業者も次々と倒産したりした。結局、工事は断念。
- 占領期間終了後も鳥居の移転話が持ち上がるたびに航空事故が起こった。もく星号墜落事故、羽田沖墜落事故、雫石衝突事故、逆噴射事故、日航ジャンボ機墜落事故など。
- 1999年、滑走路拡張に伴い鳥居が撤去されることになったが、地元住民の願いにより多摩川河口に移された。
- 多摩川河口は東京大空襲で大量の死体が流れ着いた場所。鳥居の「平和」の額縁は彼らの鎮魂。
参考文献:『ホラースポット探訪ナビ』 吉田悠軌 学研パブリッシング
- かつてこの場所にあった穴守稲荷神社の大鳥居。むかしこの辺りは度々水害に悩まされていたが穴守稲荷を祀ってから水害がぴたりと収まった。
- 戦後にGHQが神社に強制退去を命じ鳥居も壊されることになったが、作業員が死傷したり関係者が病気になったりして祟りだと怖れられ壊されずに残った。その後何度か鳥居撤去の話が出たが、その度に航空機事故が発生した。
- 1999年に旧ターミナルビルの前から現在の場所に移された。
参考文献:『日本の聖地99の謎』 歴史ミステリー研究会編 彩図社
羽田の大鳥居へ行ってきました
羽田の大鳥居を見物しにやってまいりました。
朱色の鳥居だけがポツンと建ってました。
なんとも奇妙な光景です。
鳥居の額のところには「平和」などと書いてありました。
鳥居があるだけでこれといって見る物はないです。
鳥居の前にあった碑文の内容を要約して記しておきます。
この鳥居は祟るという話を聞いていたんですが、碑文には祟りの話とかはまったく書いてなかったです。
現在地に移設されたのは、地元住民の残して欲しいという熱い要望があったからみたいに書いてありました。
近くにあった穴守稲荷神社にも足を運んでみました。
わりと大きな神社でした。
立派な社殿が建っておりまた。
横の方にあった稲荷社にも参拝。
鳥居のトンネルが見事でした。
鳥居の奥にあったお社。
小さな鳥居が雑然と積みあげられていました。
その手前に箱があって砂が入っていました。
「招福砂(しょうふくすな)」というそうで、清めの砂として撒いたりするといいそうです。
朱色の鳥居だけがポツンと建ってました。
なんとも奇妙な光景です。
鳥居の額のところには「平和」などと書いてありました。
鳥居があるだけでこれといって見る物はないです。
鳥居の前にあった碑文の内容を要約して記しておきます。
昭和初期、穴守稲荷神社の参道に建立。
終戦後、米軍により鳥居以外の建物が取り壊される。
昭和27年、米軍から飛行場が返還された後も旅客ターミナルビル前面の駐車場の一隅に残された。
昭和59年、滑走路整備のために撤去を余儀なくされるが元住民から鳥居を残して欲しいとの声が日増しに強まる。
平成11年、現在地に移設。
もっと古い鳥居なのかと思っていましたが昭和初期に建てられたということでわりと新しいものなんですね。終戦後、米軍により鳥居以外の建物が取り壊される。
昭和27年、米軍から飛行場が返還された後も旅客ターミナルビル前面の駐車場の一隅に残された。
昭和59年、滑走路整備のために撤去を余儀なくされるが元住民から鳥居を残して欲しいとの声が日増しに強まる。
平成11年、現在地に移設。
この鳥居は祟るという話を聞いていたんですが、碑文には祟りの話とかはまったく書いてなかったです。
現在地に移設されたのは、地元住民の残して欲しいという熱い要望があったからみたいに書いてありました。
近くにあった穴守稲荷神社にも足を運んでみました。
わりと大きな神社でした。
立派な社殿が建っておりまた。
横の方にあった稲荷社にも参拝。
鳥居のトンネルが見事でした。
鳥居の奥にあったお社。
小さな鳥居が雑然と積みあげられていました。
その手前に箱があって砂が入っていました。
「招福砂(しょうふくすな)」というそうで、清めの砂として撒いたりするといいそうです。