名称 | 芝丸山古墳 |
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住所 | 東京都港区芝公園4-8 |
タイプ | 古墳 |
参考リンク |
ご利益
- 5世紀後半に建造されたと考えられている前方後円墳。
- 古墳の下には縄文時代後期の貝塚もある。
- 古墳の上には江戸時代初期に建立されたとされる円山随身稲荷大明神が鎮座している。
- 全体的に厳かで男性的な強いエネルギーが感じられる。
- 古墳の周辺は不思議な安心感もある。
- 木に囲まれており優しいエネルギーがある。
- 稲荷神社は清々しいエネルギーを発している。参拝して感謝の言葉を捧げるとよい。
- 自分を再確認するのに最適のスポット。瞑想、チャネリングにも最適。
- 芝周辺には、芝増上寺、芝東照宮、芝大神宮など、パワースポットがいっぱいあるので是非合わせて訪れるとよい。
参考文献:『パワースポットニッポン』 ヴォイス編集部編 ヴォイス
芝丸山古墳へ行ってきました
港区にある芝丸山古墳へやってまいりました。
古墳のまわりは公園みたいになってました。
山になっている方へ歩いていったら稲荷神社がありました。
これが円山随身稲荷ですね。
静かな場所ですし樹木もあって、なかなか良い場所だと思いました。
古墳のてっぺんまで登りました。
てっぺんには、なぜか伊能忠敬記念碑が建ってましたね。
東京タワーも見えちゃったりしますよ。
たんなる小高い丘という感じの場所でしたけど、この方向から見ると古墳っぽいかも。
案内板に書いてあった芝丸山古墳についての説明を以下に記しておきましょう。
古墳を見た後、すぐ近くにある芝東照宮にも寄ってみました。
徳川家康公を祀ってあります。
むかしは増上寺安国殿と呼ばれていたそうですが、明治の神仏分離令によぅって増上寺から分離されて東照宮になったそうです。
境内には大きなイチョウの木があります。
なんでも三代将軍徳川家光公が植えたものなんだとか。
東照宮を見た後、増上寺にも寄ってみました。
とても大きくて立派なお寺でした。
たくさん参拝客がいましたね。
古墳のまわりは公園みたいになってました。
山になっている方へ歩いていったら稲荷神社がありました。
これが円山随身稲荷ですね。
静かな場所ですし樹木もあって、なかなか良い場所だと思いました。
古墳のてっぺんまで登りました。
てっぺんには、なぜか伊能忠敬記念碑が建ってましたね。
東京タワーも見えちゃったりしますよ。
たんなる小高い丘という感じの場所でしたけど、この方向から見ると古墳っぽいかも。
案内板に書いてあった芝丸山古墳についての説明を以下に記しておきましょう。
<<芝丸山古墳>>
全長106メートル前後、後円部径約64メートル、前方部前端幅約40メートル、くびれ部幅約22メートルほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高16メートルの台地端に位置し、前方部を南々西に向けている。
江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治31年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪(はにわ)を伴うことは知られている。
前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。
あまり詳しいことは分かってないみたいですね。全長106メートル前後、後円部径約64メートル、前方部前端幅約40メートル、くびれ部幅約22メートルほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高16メートルの台地端に位置し、前方部を南々西に向けている。
江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治31年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪(はにわ)を伴うことは知られている。
前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。
古墳を見た後、すぐ近くにある芝東照宮にも寄ってみました。
徳川家康公を祀ってあります。
むかしは増上寺安国殿と呼ばれていたそうですが、明治の神仏分離令によぅって増上寺から分離されて東照宮になったそうです。
境内には大きなイチョウの木があります。
なんでも三代将軍徳川家光公が植えたものなんだとか。
東照宮を見た後、増上寺にも寄ってみました。
とても大きくて立派なお寺でした。
たくさん参拝客がいましたね。