名称 | 新田神社(にったじんじゃ) |
---|---|
住所 | 東京都大田区矢口1-21-23 |
タイプ | 神社 |
参考リンク | 新田神社HP |
ご利益
- 以下、義興の祟り。
- 頓兵衛(船頭)、水死。
- 江戸遠江守、雷に打たれ死亡。
- 以上。
- 以下、付近の義興ゆかりのスポット。
- 三体地蔵(大田区下丸子)。敵陣に斬り込み討死した土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎を祀る。
- 頓兵衛地蔵(大田区矢口)。頓兵衛を祀る。
- 十騎神社(大田区矢口)。義興に殉じた10人の家来を祀る。
- 女塚神社(大田区西蒲田)。義興に仕えた節婦少将の局を祀る。
参考文献:『日本の伝説5 東京』 日本伝説拾遺会監修 教育図書
- 社殿の後ろに新田義興の遺体を埋葬した「御塚」がある。中に入ると祟りがある。「荒山」「迷い塚」とも呼ばれる。
- 以下、義興の祟り。
- 矢口の渡しで義興を船に乗せた渡し守が水死。
- 義興を騙した江戸遠江守が狂い死に。
- 足利基氏の入間川領内にたびたび雷火。
- 義興の怨霊、矢口付近に現われ人々を悩ます。
参考文献:『怨霊神社―怨霊を鎮めた伝説の神社・仏閣』 日本怨霊研究会 竹書房
- 開運。
- 御神木のケヤキに触れると健康長寿、病気平癒、若返りのご利益がある。御神木は落雷や戦災でも倒れなかった。
参考文献:『開運!日本のパワースポット案内』 一個人編集部編 KKベストセラーズ
- 1358年、新田義興(よしおき)公の御霊を鎮めるために創建された。
- 新田義興公は知勇兼備の武将だったが、敵の謀略にはまり、多摩川の矢口の渡しで舟ごと沈められ自刃した。
- 境内に樹齢700年のケヤキの御神木がある。健康長寿、病気平癒、若返りなどのご利益がある。
参考文献:『全国パワースポットPERFECT BOOK』 イースト・プレス
- むかし御祭神の御塚の後ろに「旗竹」という竹があった。雷が鳴るとピチピチ音がしたという。平賀源内のすすめで、この竹で矢守を作った。これが破魔矢の元祖。
- 「LOVE」と書かれた石碑がある。この石碑の前で写真を撮ったカップルは幸せになれる。
参考文献:『ご利益別ピンポイント神社』 マガジンハウス編 マガジンハウス
新田神社へ行ってきました
新田神社に参拝しやってまいりました。
小ぎれいな感じの神社でした。
鳥居をくぐってすぐの所に御神木のケヤキを見つけました。
樹齢700年だそうです。
昭和20年の戦災でこのあたり一面焼け野原になったそうですが、このケヤキの木は生き残ったんだとか。
落雷を受けたりしたこともあるとか。
それでも負けずに立っている打たれ強い木です。
案内板に「御神木に触れて、霊気を感じ取って下さい」と書いてありましたから触ってOKのようです。
私も木に触れてパワーをいただいてまいりました。
この御神木には健康長寿、病気平癒、若返りの霊験ありとの古老の言い伝えがあるそうです。
こちらが社殿です。
前の戦災で全焼してしまい、昭和35年に復元されたのが現在の社殿だそうです。
社殿はわりと新しいですが、創祀は正平13年(1358)とけっこう古いです。
こちらの神社の御祭神は新田義興公です。
南北朝時代の武将・新田義貞公の子供です。
新田さんが祀られるようになった顛末は、境内にあった由来書によると次のようなものです。
「LOVE」と書かれた石碑を発見。
この石碑の前で写真を撮ったカップルは幸せになれるとか。
お稲荷さんにも参拝。
小ぎれいな感じの神社でした。
鳥居をくぐってすぐの所に御神木のケヤキを見つけました。
樹齢700年だそうです。
昭和20年の戦災でこのあたり一面焼け野原になったそうですが、このケヤキの木は生き残ったんだとか。
落雷を受けたりしたこともあるとか。
それでも負けずに立っている打たれ強い木です。
案内板に「御神木に触れて、霊気を感じ取って下さい」と書いてありましたから触ってOKのようです。
私も木に触れてパワーをいただいてまいりました。
この御神木には健康長寿、病気平癒、若返りの霊験ありとの古老の言い伝えがあるそうです。
こちらが社殿です。
前の戦災で全焼してしまい、昭和35年に復元されたのが現在の社殿だそうです。
社殿はわりと新しいですが、創祀は正平13年(1358)とけっこう古いです。
こちらの神社の御祭神は新田義興公です。
南北朝時代の武将・新田義貞公の子供です。
新田さんが祀られるようになった顛末は、境内にあった由来書によると次のようなものです。
昔、日本中で戦いが続いていた室町時代。
新田義興(よしおき)公という、とても強くて勇敢な武将がいました。
義興公は新田義貞公の次男として生まれ子供のころの名前を徳寿丸といいました。
青年になった徳寿丸の勇敢な姿を見た後醍醐天皇が武士の位と義興という新しい名前を授けて下さいました。
その頃日本は国が南と北に別れ、争いを繰り返していました。
義興公は天皇を守るために戦いました。
そして、勇気と知恵でどんな大軍にも打ち勝ったので、武将として有名になりました。大勢の敵が襲ってきても義興公が負けることはありませんでした。
敵の武士たちは、義興公のことが怖くてたまりませんでした。
そこでいくさでは義興公に勝てないので卑怯な作戦を立てました。敵の竹沢と江戸という武士が、味方の振りをして義興公に鎌倉で戦うことを進めました。
それを信じた義興公は鎌倉へ行くために多摩川の矢口の渡というところから船に乗りました。
ところが義興公の乗った船は敵に襲われて沈んでしまったのです(1358年10月10日)。
義興公が敵に騙されて死んでしまった矢口では、不思議なことが起こりはじめました。
夜になると、ぽうっと怪しい光が現れるようになり雷がたびたび落ちるようになりました。それから、もっと不思議なことに、義興公を裏切った人は次々と義興公の怨霊に悩まされ狂死しました。
それを見た村人たちは義興公の祟りを鎮めるために、義興公の墳墓の前に神社を作ることにしました。
こうして村人たちは新田神社を作り、義興公を「新田大明神」としてあがめたのです。
やがて義興公は、村人や旅人の「運を開き守り、幸せに導く霊験あらたかな神様」として人々から広く崇敬されるようになりました。
義興公の物語は江戸時代には平賀源内によって歌舞伎・浄瑠璃「神霊矢口渡」というお芝居にもなり、その壮絶な生涯は、今も語り継がれています。
新田義興(よしおき)公という、とても強くて勇敢な武将がいました。
義興公は新田義貞公の次男として生まれ子供のころの名前を徳寿丸といいました。
青年になった徳寿丸の勇敢な姿を見た後醍醐天皇が武士の位と義興という新しい名前を授けて下さいました。
その頃日本は国が南と北に別れ、争いを繰り返していました。
義興公は天皇を守るために戦いました。
そして、勇気と知恵でどんな大軍にも打ち勝ったので、武将として有名になりました。大勢の敵が襲ってきても義興公が負けることはありませんでした。
敵の武士たちは、義興公のことが怖くてたまりませんでした。
そこでいくさでは義興公に勝てないので卑怯な作戦を立てました。敵の竹沢と江戸という武士が、味方の振りをして義興公に鎌倉で戦うことを進めました。
それを信じた義興公は鎌倉へ行くために多摩川の矢口の渡というところから船に乗りました。
ところが義興公の乗った船は敵に襲われて沈んでしまったのです(1358年10月10日)。
義興公が敵に騙されて死んでしまった矢口では、不思議なことが起こりはじめました。
夜になると、ぽうっと怪しい光が現れるようになり雷がたびたび落ちるようになりました。それから、もっと不思議なことに、義興公を裏切った人は次々と義興公の怨霊に悩まされ狂死しました。
それを見た村人たちは義興公の祟りを鎮めるために、義興公の墳墓の前に神社を作ることにしました。
こうして村人たちは新田神社を作り、義興公を「新田大明神」としてあがめたのです。
やがて義興公は、村人や旅人の「運を開き守り、幸せに導く霊験あらたかな神様」として人々から広く崇敬されるようになりました。
義興公の物語は江戸時代には平賀源内によって歌舞伎・浄瑠璃「神霊矢口渡」というお芝居にもなり、その壮絶な生涯は、今も語り継がれています。
「LOVE」と書かれた石碑を発見。
この石碑の前で写真を撮ったカップルは幸せになれるとか。
お稲荷さんにも参拝。