名称 | 穴八幡宮(あなはちまんぐう) |
---|---|
住所 | 東京都新宿区西早稲田2-1-11 |
タイプ | 神社 |
参考リンク |
ご利益
- 江戸城の抜け穴説あり。
参考文献:『地図でわかる天皇家の謎』 歴史謎学倶楽部 宝島社
- 次のような噂がある。西早稲田駅にはエレベーターが停まらない地下一階があり、そこは戸山公園地下にある政府の秘密施設に繋がっている。
- 1989年、戸山で多数の人骨発見。そこは旧陸軍軍医学校および七三一部隊の拠点だったので人体実験の被害者疑惑浮上。新宿区の調査では七三一部隊との関連性は見出せないとされた。
- 穴八幡神社は江戸城からの隠し地下通路出口という説がある。
- 1641年、神社の山裾から横穴が発掘され中から御神像が出た。出現殿で横穴を祀っている。
参考文献:『ムー』416号 学研
- 近くに「高田馬場決闘の碑」がある(戸塚1丁目水稲荷参道)。元禄の頃、菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が決闘。菅野方の助太刀に来た中山安兵衛が敵を次々に斬り倒した。
参考文献:『日本の伝説5 東京』 日本伝説拾遺会監修 教育図書
- 康平5年(1062)、源頼家が八幡神を祀ったのが始まり。
- 寛永13年(1636)、松平直次がこの地に的場を作り、穴八幡宮を射芸の守護神とした。
- 庵を造るために山裾を切り開いたら穴が現れたので「穴八幡宮」と呼ぶようになった。
- 冬至から節分までの期間限定で「一陽来復(いちようらいふく)」お守を受けられる。金運アップに効果的。冬至、大晦日、節分のいずれかの24時に家の壁に貼るとよい。
参考文献:『ご利益別ピンポイント神社』 マガジンハウス編 マガジンハウス
- この神社のあるあたりは堅い岩盤層の上にあり、江戸時代には清水が湧くことで有名だった。清水の湧く場所は金が生じやすいといわれ金運アップが期待できる。
- 信念が支えられ揺るぎない精神力を授かる。
- ここいちばんの勝負の時に邪魔者を寄せつけない。
- 冬至から節分までの期間限定で「一陽来復御守」が授与される。金運アップによい。
- 境内にある布袋像水鉢(ほていぞうみずばち)に参拝するとよい。
参考文献:『幸せを呼び込むパワースポット』 暁玲華 集英社
穴八幡宮へ行ってきました
新宿区西早稲田にある穴八幡宮にやってまいりました。
年末に訪れたんですが、なんかすごく混んでました。
鳥居の前には托鉢僧の姿も。
鳥居の脇にかっこいい騎馬武者像がたっておりました。
むかしこの神社では流鏑馬(やぶさめ)が奉納されていたんだとか。
案内板には次のように書いてありました。
こちらが社殿です。
なかなか立派です。
社殿の門のところに「一陽来復御守」の案内が書いてありました。
「金銀融通の御守とも申し古来の吉例により冬至から節分迄の間毎日穴八幡宮社殿に於てお頒け致します」だそうです。
御守の細かい祀り方なども書いてありました。
まさにこの日は一陽来復御守の頒布期間だったので、こんなに混雑していたのでしょうか?
まあ、私は御守をいただいてこなかったですけど。
基本的に物を身につけるのが嫌いな性分なので。
参拝後、神社の前に出ていた出店のトンネルをくぐって帰ります。
すごく賑わっていました。
出店トンネルの途中で、人の列の一部が脇の方へ入っていっていたので「何だ?」と思って覗いてみると、布袋さんの像があって周りに人が群がりナデナデしていました。
これが本に書いてあった布袋像水鉢だと思います。
私も撫でてきましたよ。
どんなご利益があるのかはよくわかりませんが。
八幡宮に参拝した後、隣にあった放生寺というお寺に寄ってみました。
提灯がいっぱい。
「一陽来福」と書いてあります。
「複」ではなくて「福」になっています。
こちらのお寺は、江戸時代に良昌上人という方が穴八幡宮の別当寺として開創したとのこと。
本尊は聖観世音菩薩だそうです。
徳川将軍家からも篤く信仰されておったそうな。
案内板に寺の由緒に続いて「一陽来福」の由来が記されていたので以下に記しておきましょう。
こちらは神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)を祀っているお堂。
神変大菩薩は修験道の開祖役小角のことです。
足腰強化のご利益があるとか。
地蔵菩薩も祀ってあります。
大きな慈悲心で全てのもの育み救ってくださるありがたい菩薩様だそうな。
弘法大師の像もありました。
この大師像の周りの敷石の下には四国八十八ヶ所霊場の砂が敷かれていて、四国霊場巡拝のご利益を授かれるとか。
年末に訪れたんですが、なんかすごく混んでました。
鳥居の前には托鉢僧の姿も。
鳥居の脇にかっこいい騎馬武者像がたっておりました。
むかしこの神社では流鏑馬(やぶさめ)が奉納されていたんだとか。
案内板には次のように書いてありました。
<<高田馬場の流鏑馬>>
享保13年(1728)徳川将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源とし、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で流鏑馬が奉納された。
明治維新以降中断し、昭和9年に皇太子(現天皇)誕生祝いのため再興され、数回行われたが、戦争のため中断された。昭和39年流鏑馬の古式を保存するため、水稲荷神社境内で復活し、昭和54年からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年10月10日高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。
古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は、小笠原流によって現在に伝えられており、貴重な伝統行事である。
享保13年(1728)徳川将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源とし、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で流鏑馬が奉納された。
明治維新以降中断し、昭和9年に皇太子(現天皇)誕生祝いのため再興され、数回行われたが、戦争のため中断された。昭和39年流鏑馬の古式を保存するため、水稲荷神社境内で復活し、昭和54年からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年10月10日高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。
古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は、小笠原流によって現在に伝えられており、貴重な伝統行事である。
こちらが社殿です。
なかなか立派です。
社殿の門のところに「一陽来復御守」の案内が書いてありました。
「金銀融通の御守とも申し古来の吉例により冬至から節分迄の間毎日穴八幡宮社殿に於てお頒け致します」だそうです。
御守の細かい祀り方なども書いてありました。
まさにこの日は一陽来復御守の頒布期間だったので、こんなに混雑していたのでしょうか?
まあ、私は御守をいただいてこなかったですけど。
基本的に物を身につけるのが嫌いな性分なので。
参拝後、神社の前に出ていた出店のトンネルをくぐって帰ります。
すごく賑わっていました。
出店トンネルの途中で、人の列の一部が脇の方へ入っていっていたので「何だ?」と思って覗いてみると、布袋さんの像があって周りに人が群がりナデナデしていました。
これが本に書いてあった布袋像水鉢だと思います。
私も撫でてきましたよ。
どんなご利益があるのかはよくわかりませんが。
八幡宮に参拝した後、隣にあった放生寺というお寺に寄ってみました。
提灯がいっぱい。
「一陽来福」と書いてあります。
「複」ではなくて「福」になっています。
こちらのお寺は、江戸時代に良昌上人という方が穴八幡宮の別当寺として開創したとのこと。
本尊は聖観世音菩薩だそうです。
徳川将軍家からも篤く信仰されておったそうな。
案内板に寺の由緒に続いて「一陽来福」の由来が記されていたので以下に記しておきましょう。
<<一陽来復の由来>>
現在暦や易占の礎となっている書物は「宿曜経」と云い弘法大師空海が平安時代に初めて中国から我が国に伝えたものであります。当山授与の一陽来福は冬至(陰極まって一陽を生ずる)を示す一陽来復に因み、観音経の「福聚海無量」という偈文より「福」の字を結んで一陽来福と名付けられました。一家の居間に、毎年定められた恵方に向けて貼り、資生招福・金銀融通を祈願する霊験あらたかな観音様の御札です。
江戸天保年間に、冬至前7日間真言密教による観音法の御祈祷を修して、別当放生寺が信徒に授与したのが始まりです。以来、今日に至るまで御修法を師資相伝継承し、冬至より節分迄の間授与しております。一陽来福が当山由来でありますことは、虫封じと共に古老諸彦の熟知される所であります。
現在暦や易占の礎となっている書物は「宿曜経」と云い弘法大師空海が平安時代に初めて中国から我が国に伝えたものであります。当山授与の一陽来福は冬至(陰極まって一陽を生ずる)を示す一陽来復に因み、観音経の「福聚海無量」という偈文より「福」の字を結んで一陽来福と名付けられました。一家の居間に、毎年定められた恵方に向けて貼り、資生招福・金銀融通を祈願する霊験あらたかな観音様の御札です。
江戸天保年間に、冬至前7日間真言密教による観音法の御祈祷を修して、別当放生寺が信徒に授与したのが始まりです。以来、今日に至るまで御修法を師資相伝継承し、冬至より節分迄の間授与しております。一陽来福が当山由来でありますことは、虫封じと共に古老諸彦の熟知される所であります。
こちらは神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)を祀っているお堂。
神変大菩薩は修験道の開祖役小角のことです。
足腰強化のご利益があるとか。
地蔵菩薩も祀ってあります。
大きな慈悲心で全てのもの育み救ってくださるありがたい菩薩様だそうな。
弘法大師の像もありました。
この大師像の周りの敷石の下には四国八十八ヶ所霊場の砂が敷かれていて、四国霊場巡拝のご利益を授かれるとか。