名称 | 兜神社 |
---|---|
住所 | 東京都中央区日本橋兜町1-12 |
タイプ | 神社 |
参考リンク |
ご利益
- 平将門を討った藤原秀郷が首を京都へ運ぶ途中に兜を供養したとされる。
参考文献:『ホラースポット探訪ナビ』 吉田悠軌 学研パブリッシング
- 江戸時代、このエリアには平将門を祀った鎧神社と源義家の兜を埋めた兜塚があったといわれる。1871年に三井財閥が鎧神社のあった場所に商社を移転した際、鎧神社と兜塚は一緒になって兜神社に生まれ変わる。3年ほどして三井家は源義家を祀るのをやめ、大国主命と事代主命を祀った。1878年に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設立され、同取引所が神社の世話役を引き受け、以来、証券界の守り神として崇められた。
参考文献:『日本の聖地99の謎』 歴史ミステリー研究会編 彩図社
- 特に何も感じないスポット。
- 境内にある兜岩に怪しい念が残っている。明治末~大正あたりの時代に女性がこの岩を使って呪詛をした可能性がある。
参考文献:『闇の検証 第四巻』 「HONKOWA」編集部編 朝日新聞出版
兜神社へ行ってきました
中央区にある兜神社にやってまいりました。
小さな神社でした。
読んだ本には、御祭神は大国主命と事代主命とか書いてありましたが、境内で配布されていた栞を読むと、主祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と書いてありました。
つまりお稲荷さんですね。
大国主命と事代主命も合祀されてるみたいです。
神社のすぐ近くに首都高速があって日陰になっており、なんか暗い感じでした。
でも陰気臭いというより、無機的な感じでしょうか。
周りには高速道路やら大きなビルやら建ってますし、お社も鉄筋コンクリート造ですし。
境内が緑の生垣で囲まれているのが少し救いになるかなと思いました。
境内にあった岩。
本に書いてあった怪しい念が残っている岩というのはこれのことだと思います。
なんか怖いので、触らないでおきました。
この岩には、源義家が東征に行く際に兜をかけて戦勝を祈願したという伝説などもあるらしいですけどね。
最後に、栞に書いてあった兜神社の由来を記しておきます。
小さな神社でした。
読んだ本には、御祭神は大国主命と事代主命とか書いてありましたが、境内で配布されていた栞を読むと、主祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と書いてありました。
つまりお稲荷さんですね。
大国主命と事代主命も合祀されてるみたいです。
神社のすぐ近くに首都高速があって日陰になっており、なんか暗い感じでした。
でも陰気臭いというより、無機的な感じでしょうか。
周りには高速道路やら大きなビルやら建ってますし、お社も鉄筋コンクリート造ですし。
境内が緑の生垣で囲まれているのが少し救いになるかなと思いました。
境内にあった岩。
本に書いてあった怪しい念が残っている岩というのはこれのことだと思います。
なんか怖いので、触らないでおきました。
この岩には、源義家が東征に行く際に兜をかけて戦勝を祈願したという伝説などもあるらしいですけどね。
最後に、栞に書いてあった兜神社の由来を記しておきます。
<<兜神社の由来>>
御社号
兜神社
御祭神
主なる祭神は商業の守護神とたたえまつる倉稲魂命(稲荷神の別名)。合祀の神は右に大国主命(大黒様)、左に事代主命(恵比寿様)を祀る。
御神体
神石(京都伏見稲荷の神体山の神石)
御神札
太政大臣三条実美公の御社号を染筆した神札が奉納されている。
沿革
江戸時代
弘化2年(1845年)版の「楓川鎧の渡古跡考」の地図に、牧野邸の東北隅鎧の渡付近に鎧稲荷(平将門を祭ったのが起源とも言われている)と兜塚が描かれており、この頃既に当地の鎮守として又魚河岸へ出入りする漁民により信仰を集めていた。
明治4年(1871年)
東京商社(三井物産の前身にあたる商事会社)の移転に伴い、鎧稲荷と兜塚は鎧の渡と兜橋の中間に遷された。この時兜塚として祭られていた源義家公の御神霊を、兜神社として社を創建して祀り、更にこの神社は鎧稲荷と合併して、新たに兜町の鎮守・兜神社として定められた。
明治7年(1874年)
お祀りする祭神に変更があって、祭神源義家公の祭祀を廃止して、新たに三井家(兜町1丁目の土地を所有する地主)の信仰していた三囲稲荷神社(墨田区向島2丁目に鎮座)の境内摂社である福神社より大国主命と事代主命のご分霊を勧請して合祀した。
明治11年(1878年)
東京株式取引所の設立に伴い、当取引所が兜神社の氏子総代となり以来証券界からの信仰を集めるようになる。
昭和2年(1927年)
日本橋川と楓川の分岐点の角地・兜橋東詰北側の62坪の敷地(現在の場所)に再度移転し、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。
昭和46年(1971年)
高速道路の建設に伴い旧社殿を解体し、現在の鉄筋コンクリート、一間社流造・向拝付きの社殿を造営し現在に至っている。
兜岩の由来
現在社前左にある兜岩の由来には、左記の諸説があるが、その裏付となるものは何も残っていない。
(一)源義家奥州より凱旋の際、東夷鎮定のため、兜を楓川のほとりに埋め一塊の塚となし、これを兜塚といった。
(二)前九年の役の頃、源義家が東征のみぎり岩に兜を懸けて戦勝を祈願したことからこの岩を兜岩と呼ぶようになった。
(三)俵藤太秀郷(藤原秀郷)、平親王(平将門の尊称、天慶3年(940年)2月14日戦死)の首を打って兜に添えて是まで持来れるが、兜をばここに埋めて塚となし兜山と云う。
御社号
兜神社
御祭神
主なる祭神は商業の守護神とたたえまつる倉稲魂命(稲荷神の別名)。合祀の神は右に大国主命(大黒様)、左に事代主命(恵比寿様)を祀る。
御神体
神石(京都伏見稲荷の神体山の神石)
御神札
太政大臣三条実美公の御社号を染筆した神札が奉納されている。
沿革
江戸時代
弘化2年(1845年)版の「楓川鎧の渡古跡考」の地図に、牧野邸の東北隅鎧の渡付近に鎧稲荷(平将門を祭ったのが起源とも言われている)と兜塚が描かれており、この頃既に当地の鎮守として又魚河岸へ出入りする漁民により信仰を集めていた。
明治4年(1871年)
東京商社(三井物産の前身にあたる商事会社)の移転に伴い、鎧稲荷と兜塚は鎧の渡と兜橋の中間に遷された。この時兜塚として祭られていた源義家公の御神霊を、兜神社として社を創建して祀り、更にこの神社は鎧稲荷と合併して、新たに兜町の鎮守・兜神社として定められた。
明治7年(1874年)
お祀りする祭神に変更があって、祭神源義家公の祭祀を廃止して、新たに三井家(兜町1丁目の土地を所有する地主)の信仰していた三囲稲荷神社(墨田区向島2丁目に鎮座)の境内摂社である福神社より大国主命と事代主命のご分霊を勧請して合祀した。
明治11年(1878年)
東京株式取引所の設立に伴い、当取引所が兜神社の氏子総代となり以来証券界からの信仰を集めるようになる。
昭和2年(1927年)
日本橋川と楓川の分岐点の角地・兜橋東詰北側の62坪の敷地(現在の場所)に再度移転し、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。
昭和46年(1971年)
高速道路の建設に伴い旧社殿を解体し、現在の鉄筋コンクリート、一間社流造・向拝付きの社殿を造営し現在に至っている。
兜岩の由来
現在社前左にある兜岩の由来には、左記の諸説があるが、その裏付となるものは何も残っていない。
(一)源義家奥州より凱旋の際、東夷鎮定のため、兜を楓川のほとりに埋め一塊の塚となし、これを兜塚といった。
(二)前九年の役の頃、源義家が東征のみぎり岩に兜を懸けて戦勝を祈願したことからこの岩を兜岩と呼ぶようになった。
(三)俵藤太秀郷(藤原秀郷)、平親王(平将門の尊称、天慶3年(940年)2月14日戦死)の首を打って兜に添えて是まで持来れるが、兜をばここに埋めて塚となし兜山と云う。